中上健次『枯木灘』あらすじ|路地と血族がもたらす、激しい愛憎と熱狂。

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解説

秋幸の龍造への復讐心は、龍造との血統を絶つことで果たされる。

フサから五人の子が産まれる。路地は母胎で、産み落とされた子供たちに、それぞれの生がある。秋幸を中心に物語が展開する。それは紀州・熊野・新宮を描いた作家、中上健次の等身大の生でもある。

秋幸は、西村と浜村と竹原という三つの父親の名前を持ち、母フサの腹と、父龍造の種という二つの血族がある。

秋幸にとって複雑な人間関係を忘れさせ没頭できる仕事、それが土方である。日のはじまりと共に働き、日の終わりと共に体を動かすのをやめる。日に照らされ、光りに染められ、季節の景色に自由になる気がする。自然は秋幸を慰藉いしゃしてくれる。

秋幸の考える土方という仕事、そこには肉体と繋がる物語がある。つるはしをふるう、日に炙られながら、体の中をがらんどうにして働くことが心地よい。それは自然観に昇華されて、いにしえ隠国こもくに 紀州の物語を訪ねていくことに繋がる。

伊邪那美イザナミの神話から、平家の落人、真田の伝説、大逆事件など敗者が隠れ棲んだ歴史を背景に、私生児として、自分はどこから、なぜここにやって来たのかと悩む秋幸に、いかがわしく、どこの馬の骨とも分からない「蠅の王」である浜村龍造が、浜村孫一の系譜であるとの嘘話をもって、立ちはだかる。

異母妹のさと子と性的な関係を結ぶ。近親相姦である。それは実父龍造への報復の思いからであった。それは生涯にわたって、龍造にとって秋幸が苦の種になるはずだった。男が苦しみのあまり呻き叫ぶ姿を待った。同時に、龍造が秋幸を打ちすえ、さと子を張り倒しても良いと思った。しかし龍造は「しょうないことじゃ、どこにでもあることじゃ」と低く声をたてて笑う。

秋幸は龍造に対する報復も、また父親の全うさへの期待も裏切られる。そして龍造から「アホの子が出来ても、しょうないことじゃ」とまで言われる。このとき秋幸は完全に龍造に打ち負かされてしまう。

それから秋幸は、灯籠流しの夜に正当防衛で秀雄を石で打殺する。そして秋幸は、縊死した異父兄の郁男も、結局は自分が殺したのだと考える。秀雄も郁男も殺さなければ、自分が殺されたのだと考える。

秋幸の龍造に対するエディプス・コンプレックスの父殺しの思いは果たされず、行き場もなく、やり場もなく、自分を失い、その先の『地の果て 至上の時』に続いていく。

秀雄を失い さと子が凌辱されても、秋幸の帰りを待つ龍造の思い。

『枯木灘』は『岬』よりもさらに複雑な人間関係だが、秋幸の脳裏には常に浮かぶ二人の男がいる。

一人は幼い頃に、母フサと自分を殺しにやって来て、果てに母に見棄てられた怨みから自ら命を絶った異父兄の「郁男」と、もう一人はいつも視られ、呪縛の原点であり、半分の醜い血を受け継ぐ「浜村龍造」である。

秋幸は心の奥底で「郁男」と妹の「美恵」の兄妹関係と、「自分」と異母妹の「さと子」の兄妹関係のなかに、「自分」の「美恵」への思いが強くあることに気づく。

それは血において許されない関係である。それは「徹」が「白痴の女の子」を強姦するという現場に立ち会うことで、血の濃い危険な関係のおぞましさと共に、神話にも似た血の物語を黙示させる。

後継ぎとしていた秀雄を失い、龍造は七日間、家に籠る。この龍造の心象は『覇王の七日』に詳しい。

秋幸は龍造への復讐を果たせなかった。そして刑務所に服役することになる。それでも龍造は刑務所から出てくる秋幸は “買い” だと考える。

そうして象徴的に「白痴の女の子」が「徹」を追い求める場面で、物語が閉じられる。

それは神秘深い紀州・熊野・新宮の自然観のなかで、<路地>で産まれた人々の血族の歴史であり、その血の沸騰を凝視する視線である。

土地が孕む熱狂の中で、完結作『地の果て 至上の時』へと向かっていく。

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作品の背景

『枯木灘』は中上文学の代表作品である。秋幸三部作は「路地」という狭い土地が舞台である。そこには複雑な血縁・地縁の人間関係がある。さらに時空を広げると紀州・熊野・新宮といういにしからの歴史の物語としても読める。

物語は「路地」という特別な場所を消し去り、共同体の解体が土地開発のもと行われようとしている。都市化や近代化が進み、地域の記憶が共同体と共に破壊されていく状態である。

日本の習俗である盆の先祖かえり、物語のなかの盆踊り歌の「兄妹心中」は、いにしえの熊野信仰や、土地に受け継がれる民話や民謡のなか、そこに生きる人々の血の沸騰を感じさせる。自然のなか、父祖を招き、精霊を送り、地霊を漂わせ、山霊を吹き込ませる。そこには人々が信じ、言い伝えられた物語が生きている。

それが紀州の木や、気や、鬼として、神聖なものとして昇華する。こんな時代だからこそ、人間と自然、共同体と神の関係を、中上文学のなかに訪ねてみたい。

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発表時期

1977年(昭和52年)、『河出書房新社』から刊行。中上健次は当時30歳。1975年の芥川賞受賞作『岬』の続編となる。『枯木灘』の続編『地の果て 至上の時』(1983年)で秋幸三部作として完結する。中上の代表作であり、紀州・熊野サーガの中心的な作品となっている。

また『枯木灘』の後日談として息子を失った龍造が、失意のなか自宅に閉じこもった苦悩の七日間を描く短編『覇王の七日』(1977年)があり、この秋幸三部作の前日譚としてフサの半生を描いた『鳳仙花』(1979年)がある。中上の考える自然観と紀州の国を包む神秘的なるものが、熊野・新宮の路地という場所で、複雑な地縁と血縁の人間関係のもとで描かれている。

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