ガルシア=マルケス『百年の孤独』解説|愛も死も孤独も、みんな魔法にかけてしまうー魔術的リアリズムって、何だろう?

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南米コロンビアのノーベル文学賞作家、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』は、マジック・リアリズムの代表的な作品とされています。

この「魔術的なリアリズムとは、何か?」について考えてみました。

それは、日常的・現実的な世界に、魔法的・幻想的・神話的な要素を違和感なく組み込む表現手法とあります。現実の世界で、非日常的な出来事があたかも自然に起こるかのように描かれる点が、特徴です。

それではいくつかの角度から考察してみます。

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さっそく、マジック・リアリズムの有名な個所をご紹介します。

物語は、始祖のホセ・アルカディオ・ブエンディアから始まる一族の百年にわたる孤独を描きますが、家系図のなかのひとりに、レメディオス(子町娘)という男を惑わす魅惑的な女性がいます。

以下、文章の抜粋になりますが・・・

3月のある日の午後、紐(ひも)に吊るしたシーツを庭先で畳むために、フェルナンダ(アウレリャノ・セグンドの正妻)は屋敷の女たちに手助けを頼んだ。仕事にかかるかかからないかにアラマンタ(始祖の娘)が、レメディオス(子町娘)の顔が透き通って見えるほど異様に青白いことに気づいて、

「どこか具合でも悪いの?」と尋ねた。

するとシーツの向こうはじを持ったレメディオス(子町娘)は、相手を哀れむような微笑みを浮かべて答えた。

「いいえ、その反対よ。こんなに気分が良いのは初めて」

彼女がそう言ったとたんに、フェルナンダは、光をはらんだ弱々しい風がその手からシーツを奪って、いっぱいにひろげるのを見た。

自分のペチコートのレース飾りが怪しく震えるのを感じたアラマンタが、よろけまいとして懸命にシーツにしがみついた瞬間である。

レメディオス(子町娘)の体がふわりと宙に浮いた。ほとんど視力を失っていたが、ウルスラ(始祖の妻)ひとりが落ち着いて、この防ぎようのない風の本性を見きわめ、シーツを光の手にゆだねた。めまぐるしく羽ばたくシーツにつつまれながら、別れの手を振っているレメディオス(子町娘)の姿が見えた。

彼女はシーツに抱かれて舞いあがり、黄金虫やダリアの花のただよう風を見捨て、午後の四時も終わろうとする風のなかを抜けて、もっとも高く飛ぶことのできる 記憶の鳥でさえ追っていけないはるかな高みへ、永遠に姿を消した。(P367)

男心を狂わせ一瞬に虜にしてしまう美しい女性、子町娘と呼ばれるレメディオスの昇天、つまり死の場面です。まるで宗教画のようです。昇天というと、天に召されるわけですが、それは永遠を意味するような描かれ方です。

ここでの死はフィクションではなく事実です。物語の上では、このときレメディオスは死んでしまいます。
その意味ではリアリズムです。それを幻想的なファンタジーの世界で表現します。この天に昇っていく描写は、レメディオスの美しさを讃えています。

これが日常の文章の前後に挟まれます。こうしてレメディオスの神秘的な存在が強く読者に印象付けられることになります。

ブエンディア一族とマコンドの盛衰、つまりは人間と土地の歴史である『百年の孤独』の物語は、ガルシア・マルケスが、生まれ育ったコロンビアのカリブ沿岸地方の風土に育まれた逸話や民話を題材にマジック・リアリズムの手法で完成されたのです。

初読では、理解するのが確かにしんどいです。そこで、ラテンアメリカの地理や気候、コロンビア(インディア)の歴史や説話、さらに作家の人生やいくつかの作品(短編など)を読んで、再読すると馴れてきます。

特に、ガボと親交の深かった、田村さと子著「百年の孤独を歩く ガルシア・マルケスとわたしの四半世紀」は、理解の上で、とても参考になります。

教科書的な歴史の事実の羅列ではなく、人間の営みを感じることができました。

『百年の孤独』の完成は、コロンビアや南米の読者にとっては、強い一体化意識(我がこと感)を共有し、さらに、世界の読者には神秘的に受け入れられ、時空を超え、大ヒット(5,000万部)しました。

私たちは、マヤ(中央アメリカ)やアステカ(メキシコ高原)やインカ(アンデス山脈)の文明のことを学びました。

もともとカリブ海沿岸にいたグアヒロ族(≒ワユー族)など多様なインディオの習俗があり、侵略者である異邦人の文化―スペインが主ですが、ポルトガル、イギリス、フランス、オランダの国々も含みます。さらに労働力としてアフリカから奴隷として連れてこられた黒人たちとその文化もあります。

さらに中東や東洋からの移民もいて、コロンビアは、多人種、多文化が混ざり合った国家です。そこにはたくさんの逸話や民話が生きています。

マジック・リアリズムは、もともとは美術の手法として生まれたものらしいのですが、やがて文学に転嫁され、特に複雑な歴史を持つ南米文学の特徴として確立されたようです。

ガルシア・マルケスは、事情があって祖父母に預けられて育ちます。そこはかつてバナナブームで栄えた土地でした。

一家の支配者だった祖父からは内戦(千日戦争)の話を聞かされ、スペインの辺境の地であるガリシア地方の出身の祖母は、母系家族の象徴で、幼い頃にたくさんの話を聞かせてくれ、大変、迷信深く、神秘的なものを異常なまでに畏れていたということです。

死神や死者をまるで生きている人のように話したと言われ、土着的な神話や民話を、ごくありふれた当然のことのように話した、と言います。

そこには通常の表現では、語りつくせない出来事があったのかもしれません。

ガルシア・マルケスは、このとき、祖母を思い出し、祖母が語っていたように書けばいいのだという啓示を受けたと言います。(短編集エレンディアP193)

その完成形が『百年の孤独』となります。

ガルシア・マルケスがこの手法に辿り着くまでには、もちろん、ヨーロッパをはじめ他国からの学びも当然ありました。

ドストエフスキーやフォークナー、ヘミングウェイ、ジョイス、ヴァージニア・ウルフ、セルバンテスなど多くの作家の影響を受けています。例えば、川端康成の『眠れる美女』を好きだと言っていますし、カフカの『変身』を読んで、 おばあちゃんと一緒だなと思ったと言われています。

そのカフカの『変身』について考えてみます。

人間が虫になることはありません。だからカフカの『変身』なんてナンセンスだと思われる方もいるでしょう。しかし、作者の思いを知るために、メタレベルで考えてみることで、理解が深まることもあります。

虫になるとはどういうことか?

作品のなかで、主人公のザムザは家族のために懸命に働く一家の大黒柱です。しかし、精神的にも肉体的にも相当、疲れているようです。ある朝、時計の針はとっくに起床時間を過ぎています。

気がついたら自分が虫になっていることを知ります。虫になりたかったのかもしれませんね。疲れているし、仕事には行きたくないし・・・。こうなると、働かない。正確に言えば、虫になったのですから、働けません。

ザムザは、虫と化した自分を何とも思っていません。しかし、当然ながら、家族は虫になったザムザに愕然とすると同時に、稼ぎ手の不在に戸惑います。

隠居していた父親が再び働きに出てみたり、空き部屋を旅客に貸して宿屋にしたりしますが、うまくいきません。唯一の理解者で、優しかった妹もふくめ、ついに家族にとってザムザは邪魔者になります。

まさに害虫を飼っている状態です。疎んじられ、家族にとって不要となったわが身を知ったザムザは、自ら死を選ぶのです。

ザムザが、ある日突然、虫になったことが不条理なのではなくて、働かないザムザは、家族にとって虫と同じ存在であり、家族全員の意識の中で、害虫(毒虫)となったことが不条理なのです。

ここでは、虫になっていることは、ザムザも家族も同じ認識です。

人間が虫になることはありません。しかしザムザは役立たずの虫なのです、それも害虫。リアルな現実を幻想化した状態です。まさに『変身』です。

カフカは、虫になったザムザ(虫)の描写を細かく行います。これを読者がいかに捉えるかということになります。

おぞましさと共に、どこか変な可笑しさも感じてしまいます。だって主人公は虫ですから・・・・、これは物語のチカラです。

結果、ザムザがいなくなって家族はホッとします。

揃って、郊外にでかけ、未来が明るくなることを喜び合っていましたよね。

作品を通して、家族の愛情や信頼の絆なんて、脆くて危ういものだと気づかされてしまいます。

小説ではありませんが、日本にも参考になりそうなものがあります。

この『百年の孤独』は、1828年~1928年の百年、及びそれ以前の歴史を含んでますが、同時期の1910年(明治43年)民族学者の柳田国男は岩手県の遠野地方に伝わる逸話や言い伝えを、そこに住む人から聞いた話としてまとめた説話集、

『遠野物語』を発表しています。

天狗、河童、座敷童子などの妖怪や山人、神隠しなどが紹介されますが、これは現実に起こったことだと村民たちは証言しています。

作品の冒頭には “この書を外国に在る人々に呈す”とあります。この意味は、遠野郷に伝わる話を海外の人々に日本の文化や習俗のひとつとしてご紹介します。という意味です。

それでは、妖怪や神隠しは本当でしょうか?それとも嘘でしょうか? 

本当なら妖怪がいたことになるし、神隠しがおこったことになります。嘘なら村人たちは、虚言癖があるということになります。

ここで、遠野物語の何を信じるのか?ということになります。それは、閉ざされた山あいの郷に生きる遠野の人々の暮らしに思いを馳せることです。

ガルシア・マルケスの『エレンディア』という短編集のあとがきに記されていますが、コロンビアのある河畔には2m近くもあるミミズがほんとうにいるといいます。

先ほどの小町娘レメディオスが白いシーツにくるまって昇天する幻想的なシーンについても、コロンビアの人にとって、あれは作り事ではないらしいです。

女性が香水をつけて海岸や川岸を歩くと香水の匂いに引き寄せられて集まってきた無数の蝶が汗を吸おうと体に群がるという。その様子を遠くから眺めると、目が眩(くら)むほどのまぶしい日差しの中で、女性が蝶と共に天に昇っていくように見えるというのです。

まさか・・・と思うか、そうなのか・・・と思うのか、は自由です。

そこにヒントを得て、現実を幻想的に描き、独特な修辞法で物語を作り上げていく。 それがマジック・リアリズムなのだと思います。

時代を経て語り継がれ、逸話や民話となるときに、現実世界の表層に隠れた奥深い意味、それは、象徴として人々の記憶に生き続けることになります。

自然への敬いや畏れ、信仰や習俗が生まれた経緯、残酷な惨劇や奇跡のような出来事。それは地域に生きた人々の赤裸々な生の営みのなかで生まれたものです。

はじめに先住民のインディオがいて、征服者のスペイン人がいて、連れてこられた黒人の奴隷労働者がいる。この三つの血が、混ざり合う。そこに物語が生まれます。

他にも、はじめて氷と対面する場面や不眠症が蔓延して町中の人々が文字通り全く眠れなくなり、さらに物忘れになったり(P78)、死の世界からこの世に舞い戻るメルキアデスだったり(P78)、チョコレートを飲んで12cm空中浮遊する神父だったり(P133)、謎の自殺を遂げたホセ・アルカディアの血が通りを越えてウルスラの部屋に達したり(P208)、始祖であるホセ・アルカディオ・ブエンディアの死に際して小さな黄色い花が雨のように空から降ってきたり(P.221)、黄色い蝶の群れを引き連れて歩き回るマウリシオ・バビロニアだったり(P.440)、四年間も降り続ける雨だったり、と不思議な話が次から次へと織り込まれていきます。

ひとつひとつが、歴史を記憶させる象徴になっています。マジック・リアリズムを通して、この場所に生きた人々の記憶を伝えること=これがガルシア・マルケスの到達した小説の手法なのかもしれません。

さらに一族の物語としての禁じられた恋と人間の業欲。個の物語が、歴史の全体の物語のなかに混ざり合って「魔法の国」マコンドとして包みこまれ、やがて、時代の荒波に翻弄され、破壊され、永い孤独の中で、物語は終焉を迎えます。

「豚のしっぽが、生えてくる。」という言い伝えがとても印象的です。

始祖であるホセ・アルカディオ・ブエンディアと妻となったウルスラ・イグアランとの最初の交わり、その禁忌とされた行為が、一族の最後の者となるアウレリャノの誕生の際に、実際に豚のしっぽが生えていることで終わりを迎えます。

しかし、物語はこう告げます。

この百年、愛によって生を授かった者はこれが初めてなので、これこそ、改めて家系を創始し、忌むべき悪徳と宿命的な孤独をはらう運命をになった子のように思えた。

ということは、これまでは愛が欠如していたわけです。愛よりも自我が勝っていたのでしょう。

イデオロギーの対立、政治闘争、権威主義、信仰と宗教、資本主義の到来。争いと大殺戮。人間を分断し孤独に追い込んでいくことばかりでした。

そこに、真実の愛によって誕生したのが、最後の者であるアウレリャノだったのです。

しかし破滅が訪れます。祟りなのでしょうか? それとも止まない人間の業の果ての報いなのでしょうか?

メルキアデスによって羊皮紙に記された予言通りに

この一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる

ホセ・アルカディオ・ブエンディア(最初の者)とアウレリャノ(最後の者)のことです。確かにその通りになりました。蜃気楼のように、マコンドの町は嵐とともに

消滅し、一族の歴史も途絶えました。

『百年の孤独』は、戒めに反したことで、終わりを迎えました。

歴史は同じ事を繰り返しています。それでも人間は物語を紡ぐ生き物なのだと思います!

この『百年の孤独』を通して、コロンビアを信じ愛する人々を感じることができますし、そのことを世界の人々も知ります。まるでお伽の国のようです。不思議な魔法にかけられ、未知の国へ誘われ新たな学びの機会にしながら、同時に自らの国を顧みたいと思います。

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