ドストエフスキー『地下室の手記』解説|この男の思い、現代の気分かもしれない!

スポンサーリンク

「地下室」とは物理的な場所ではなく、意識下で自分とは何かを考え続けること。男は自意識過剰で、自分の存在を誇らしく思う。そこには社会と敵対し皮肉に笑う自分がいる。賢い人間は、地上には出ない。そう考え、悪態をつき、嫌われ、除け者にされる。

矛盾したこの社会、外見は美しくとも中身の汚れている現実から、逃げこんだ場所。意識の深いところで辿り着いたのは、利益第一の合理主義の否定である。人間は本当に理性的な生き物なのか、この男の自尊心は、ますます他者を隔てる。

物語は第一部と第二部で構成され、第一部は「地下室」の独白となっている。40年を生きてきた男は、孤独と絶望のなかで独善的だ。その背景として20代の記憶が、第二部の「ぼた雪にちなんで」で綴られる。

★以下の動画もぜひご覧ください↓

物語りの始めに、この男は、自分を「わたしは病んだ人間だ」と告白している。

第一部は、40歳の現在で、親戚の遺産が入り役所の仕事を辞め、外界(社会)と断絶し、自意識の殻に閉じこもっている状態である。「地下室」とは、この男の「自尊心」そのものである。

第二部から始めたほうが良いのかもしれない。16年前の出来事の回想である。

このころ地上(外界)にいた男は、勤めていた役所の仕事に生きがいを感じることができなかった。その後、いくつかのエピソードが紹介され、厭世的となった心象が綴られる。

男は攻撃的かと思うと臆病だったりもする、優越感の塊かと思えば、自分を虫けらよりも劣ると評したりもする。何者にもなれないまま、ただ感情のままに行動している。

天邪鬼だが、自分は他人より知的だと思っている。そして、世間の人々の合理的な振舞いを軽蔑している。

この男は、強い自己肯定感を持っているようだ。何故か? 

それを知るためには、この男が「人間とはいかなる生き物と考えているか」をわれわれが理解しなければならないようだ

男は、人に逆らうひねくれ者として、とにかく社会に抗うように、20代を過ごしている。将校の大男から蠅のようにあしらわれ反撃(対等に肩をぶつける話)したり、育ちの良く尊大な奴とその仲間を侮辱(家柄主義への批判)したり、親から売られた若き売春婦を憐れんだり(道徳めいた説得)と、大きく3つのエピソードが綴られる。

それは、復讐であったり、悪意にみちていたり、綺麗事だったりするが、男は結果的に将校に無視されるも威厳を取り戻し、仲間に軽蔑されるも誇りを護り、娼婦に感謝されるも偽善を得意がり、そして、すごすごと地下室へ帰っていく。

それでも「美しくて崇高なもの」への憧れが支えとなっている。

男は、人間は非合理な生き物と捉えている。
それでも理性を越える本物の理想を求めているようだ。しかし、それが何かはわからない

この男は、異常なのだろうか?

エピソードのひとつ、若い娼婦リーザに延々と説教をする場面がある。
そこには、「現実とは何か」の答えがある。
堕落から死に至る売春婦の行く末を熱弁している。金のために人間が生贄になる、社会は理性では何も解決しないことの象徴のように映る。

また男の部屋に同居する初老のアポロンという下僕との主従関係も興味深い。この下僕は毎夜、聖書の詩篇を朗読している。二人は喧嘩ばかりしているが、地下室の男は下僕のアポロンに説教で負かされ、いつも忌々しく思っている。関係が逆転するのだ。

救いを期待して地下室の男の部屋を訪れたリーザにひどい仕打ちをする、しかし逆にリーザは憐れみをもって男の気持ちを察している。ここでもリーザと男は逆転している。

ここに、<信仰><無私の愛>がある。求めていた「美しくて崇高なもの」の姿がうかがえる。これは2年後の『罪と罰』のラスコーリニコフとソーニャのキャラクターに発展していくかのようだ。

この物語を作家とその時代背景で考えてみるとさらに理解が深まる気がします。

第一部は1860年代、第二部は1840年代。舞台はともにロシアの帝都サンクトペテルブルク。地下室の男には、作者の実生活も投影されていることでしょう。

夢想家としての作家、ドストフスキーは、二十七歳(1848年)のときにペトラシェフスキーの提唱する空想社会主義を支持し活動をする。これが発覚し、反逆罪に問われ死罪となります。そして執行の日、皇帝ニコライ一世の恩赦によって、死を免れる。

結果、シベリア流刑となり、獄中生活を強いられ、このとき聖書と深く関わる。その後、兵役を科せられる。

空想としての理想社会(ユートピア)を語っただけで、死刑を宣告され、死の恐怖を味わい、流刑され、獄中生活を経験するわけである。なんという不条理だろう。

請願が認められ約十年ぶりにペテルブルクに帰還(1859年)することになる。

兵役時代に知りあったマリアと結婚。この間、病床のマリアを裏切り、愛人と逃避行し、後に、破綻。このことでマリアへの罪の意識が深まる、旅先で知ったルーレット賭博の興奮もあり、自身のなかに理性では抑えきれないマゾヒズムや恍惚感を抱く。

この作品は四十二歳(1863年)のときに執筆が始まっている。同年、妻マリア死去。このころには、ペテルブルクの時代の空気も、変わっていた。

空想社会主義の理想が進化して、科学的、合理的な社会主義運動へ加速していた。

男はこの理性主義を否定する。そして辿り着いた先は、自由意志。自らの感情の尊重、作者の実生活の思いも流れ込むように、第一部「地下室」の思想に帰結している。

最も象徴的な部分、2×2=4について。

誰もが疑わない事実。しかし「地下室」の男は、これを疑う。合理主義の否定です。
合理主義=ラショナリズム(Rationalism)、すべては計算で答えが導き出せるという進歩的な設計主義に基づいた社会建設、つまりは科学的な社会主義(共産主義)への疑いです。

地下室の男は、理性で解決できるとする人間の心や社会の在り方を否定している。それはヨーロッパから来た西洋近代の思想の影響である。人間がピアノの鍵盤のひとつの役割になることを否定する。

拝金主義と優勝劣敗のなか、人間の頭のなかで描いた平等な社会などは成り立たない。
西洋文明の批判である。

煌びやかな近代文明の傍らで、犯罪、貧困、性、秩序が乱れる虚構の街、ペテルブルク。

その思想の主役はヨーロッパに影響を受けたインテリゲンチャ(インテリ)たちだった。

この知識層が社会を変えようとする動きと、現実には皇帝アレキサンドリア二世による農奴解放の失敗で放り出された人々は金を求めながらも極貧の生活から抜け出せない。社会は、貧富の混沌のマグマが噴き出しそうである。

歴史においては、この後、ついに皇帝は暗殺され(1881年)、十数年後に帝政ロシアは崩壊し、幻想の社会主義の下で恐怖政治が行われていく。

フランス革命後のナポレオンの出現と戦争、アメリカ建国後の南北戦争の勃発、ともに、その底流にあるものは、啓蒙主義であり自由で民主という人間の理性万能主義である。

男は、この合理を疑い、思索のなかに沈殿している。

結局、社会のなかで敗北し、他者への愛など持ち合わせていないことを知り、外界と没交渉になり「意識」のなかに籠っていくのである。

この作品『地下室の手記』は、ドストフスキーへの転換点とされている。

それまでの貧しく虐げられた人々に寄り添う人道主義的な作品から、合理と非合理、自分と自他という精神の狭間で苦悩し続ける。

ではこの苦悩の先に答えは見つけ出せたのか?

それこそが、以降のドストエフスキー文学なのだろう。社会の壁に圧し潰されそうになりながらも、ニヒリズムを越えていく闘い。

その解を、「土壌主義」のなかで、ロシアの民衆と正教(キリスト教)が一体となっていく姿に求めていく。

自我を捨てて、皆(≒ロシアの民衆+大地)のなかに自分が在ることを確認することで、自分を見出し、自己を発揮していくことができるという答えに辿り着く。

この思想が、『罪と罰』(1866年)『白痴』(1868年)『悪霊』(1871年)『未成年』(1876年)『カラマーゾフの兄弟』(1880年)という5大作を生み、ドストエフスキーは人間の深い精神を揺さぶる世界的な作家となる。

最晩年の『カラマーゾフの兄弟』のなかで、大審問官という創作話を通じて、「神がいなければ、すべてが許される」という合理主義的な世界観を呈示し、その考えに至ったイワン(カラマーゾフの三兄弟の次男)を発狂させ、長老ゾシマの談話において、人間は皆、すべてに対して罪を背負っている存在であり、「傲慢を捨てよ」という教えを説く。

逆説的に言えば、人間の傲り高ぶった自意識が全ての前提となる。人性=人間の本来の感情を認めることから始まっている。

ドストエフスキーは、人間の根源を探究し続けた結果、人間は理性ではなく感情で生きる存在だと考えている。その意味では、インテリ(インテリゲンチャ)ではあっても、当時の理想主義者たちとは一線を画すアウトサイダーである。

傲慢を捨て去ることができない人間が地下室の男である。この傲慢には、自尊心が強く、自己を正当化し、利己的で、支配欲が強く、虚栄心に満ち、誰からも認められたい、そのくせ弱く、愚か者で、自分は何者にもなり得ないと自虐気味に呟く・・・・そんな過敏な自意識がある。

まさに原罪(Original Sin)ではないか・・・・。だから「わたしは病んだ人間だ」と表現している。

それでも、けっして自分を偽らない、恣意的な自由意志すら誇りに思っているのだ。なぜなら理性に従うだけの人間は、虚構の枠に閉じ込められ魂を殺されるからである。

だから精神の痛みを受け入れている。歯の痛む苦しみですら快楽と考えているのである。

ドストエフスキーは「キリストの教えに従って己を愛するように人を愛する」(≒隣人愛)ことは不可能だとし、何故なら「地上における人性の法則」つまり傲慢という人間の我(が)に阻(はば)まれるからだとする。この背反こそが永遠の問いかけである。

人間は原罪(Original Sin)から逃れることはできない。ドストフスキーもまた自ら原罪を背負った人間だと認めている。

精神を病む一歩手前まで接近する、ぎりぎりの淵にまで行って自分は何者なのかを探している。だからこそ、罪と罰の問題、善と悪の問題、神の存在の有無を文学のテーマとしたと同時に、孤独と絶望のなかで、自己を再生しなければならないとした。

私たちは、こうして後のドストエフスキー作品で、「信仰」つまりは理性を越えた

「美しくて崇高なもの」に導かれていくのです。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』解説|自由とは欲求を満たすことではない
神の存在と不在を問う部分が、第五編の「プロとコントラ」と第六編の「ロシアの修道僧」。神か悪魔か、善か悪か、個人(個人主義)か全体(共同体)か。そこでは「人間とは何か」という生きる意味や使命を問うています。『大審問官』について考えてみます。
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』解説|大地の声は聞こえるかーポリフォニーとカーニバルー
人類史上の最高傑作のひとつ、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。父殺しというテーマに込めた帝政ロシアの運命を暗示する。その文学の手法を“ポリフォニー”と“カーニバル”という独特な手法で、精神の奥へ奥へと読者を誘っていく。そこには自伝としての人生が反映されている。
カラマーゾフの兄弟1 | ドストエフスキー, 亀山 郁夫 |本 | 通販 | Amazon
Amazonでドストエフスキー, 亀山 郁夫のカラマーゾフの兄弟1。アマゾンならポイント還元本が多数。ドストエフスキー, 亀山 郁夫作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。またカラマーゾフの兄弟1もアマゾン配送商品なら通常配送無料。