ガルシア=マルケス『百年の孤独』解説|孤独とは、愛の渇望なんだ

スポンサーリンク

作者のガルシア・マルケスは、南米コロンビア出身の小説家であり新聞記者です。

『百年の孤独』は、1967年出版の長編小説で、所謂、マジック・リアリズムの代表的な作品とされています。それはジャーナリズムの視点×魔術的な手法で描かれます。

蜃気楼の村、マコンドの誕生、隆盛、消滅までを、始祖であるホセ・アルカディオ・ブエンディアから第七世代までを通して語られます。

自由を求め、無から新たな土地を開墾。次第にいろいろなモノがあふれます。近代化です。豊に栄えますが、やがて退廃に向かいます。人々は争いをはじめ、戦争がおこり、搾取が起こり、町と家族を守るために、戦い、敗れ、果てに、マコンドも一族も消滅します。

文庫版で625ページに圧縮された百年は、人間が絶えまなく繰り返していく愛と名誉のための闘いの叙事詩なのです。

★以下の動画もぜひご覧ください↓

スポンサーリンク

物語の始まりは、禁忌を犯すことから起こります。禁忌とは、タブーのこと。
人々が、その行いを忌み嫌います。戒めを破ると、祟りが起きそうな感じがしますよね。

近親婚(近親相姦)はしてはならない! 
生まれた子供のお尻には、豚のしっぽがついてしまう。
という言い伝えがありました。

小さな時から幼馴染の二人。ホセ・アルカディオ・ブエンディア(最初の者)とウルスラ・イグアラン(家刀自)は、いとこ同士でありながら、結婚し、ホセはウルスラを妻とします。関係を持つことを恐れるウルスラに対して、周りから同衾しないことを馬鹿にされます。

ホセは名誉を汚されたとの理由で、妻を侮辱したプルデンシオ・アギラルという男を殺してしまいます。

そして、ついに禁忌(タブー)を犯します。仕方ありませんよね、結婚したのですから・・・以来、ホセにはアギラルの亡霊がつきまといます。

この瞬間、ホセとウルスラの家系には、因縁めいたものが埋め込まれてしまったのかもしれません。血であり、遺伝であり、末代まで繰り返される一族の業です。

愛ゆえの殺戮とうしろめたさ、ホセの孤独が始まります。ウルスラもホセと寄り添い生きていくことで、孤独の伴走者となります。

二人は村を出ます。故郷を離れ、何人かの仲間を連れて、ジャングルを彷徨います。地理的には、リオアチャ(カリブの沿岸の東部)とは反対のアラカタカ(西の内陸)の方へ。辿り着いた場所が新天地マコンドです。

ウルスラは「豚のしっぽ」が生まれないよう、「結婚は血の繋がりのない相手を選ぶこと」という末代までの家訓を残し、常に警戒をします。

夫のホセは、アギラルの亡霊と語らうようになり、次第に頭がおかしくなり、ついに発狂し、死ぬまで大きな栗の木に括り付けられる始末です。

ようやく開けそめた新天地なので名前のないものが山ほどあって、話をするときは、いちいち指ささなければならなかった。

マコンドの創世記です。ここに世界をさすらうメルキアデスをリーダーとするジプシーの集団が現れ、新しい品物を持ち込みます。

最初は、魔法の磁石。するとホセ・アルカディオ・ブエンディアは、錬金術にはまります。次は、望遠鏡と大きなレンズ、氷、空飛ぶ絨毯・・・マコンドは次々に文明を受容していきます。それは、驚きであり、喜びであり、楽しみです。

空想好きで現実離れしたホセ・アルカディオ・ブエンディアと、しっかリ者で常識的なウルスラ・イグアラン。メルキアデスは近代の象徴でしょうか。苦悩に満ち、博識で、神秘的で、怪しげな会話が面白い。

ジプシーは流浪の民です。物語では、世界の様々な新発明の配達者であると同時に、予言者でもあります。 

マコンドは、若き族長のホセと仲間たちの勤勉さで発展し、交易の道が開き、商人や職人も集う賑やかな町になります。やがて政府から派遣された町長がやってきます。ここに、政府側と、ホセたちマコンドの人々たちとの対立の構図ができ、時代のうねりとともに運命の濁流に飲み込まれていくのです。

第二世代では、ジプシーの一団と共に村を出たかと思うと、突然、刺青だらけの体で舞い戻ってきたイチモツのどでかい長男ホセ・アルカディオ(性の英雄)、町長のモスコテの娘で、幼な妻となったレメディオスと次男アウレリャノ(大佐)、イタリアの美男子を射止めようと三女アラマンタ(黒い繃帯)と、遠戚で湿った土と石灰だけを食べる、もらわれっ子のレベーカの姉妹による恋敵を巡っての諍いなど不思議な挿話を交えて繰り広げられます。

やがてアラマンタは、誤ってレメディオスを死に追いやってしまい、レベーカは、ホセ・アルカディオ(性の英雄)と結婚します。アラマンダは心に傷を負い生涯、独身で通すことになります。

ブエンディア家の人たちは、恋愛が好きです。たくさん恋し愛します。実る恋、敗れる恋、激しい恋、哀しい恋、優しい恋、正妻から娼婦まで、これはラテンの血なのでしょうか。

物語は、大きな歴史のなかへ、注ぎ込まれ、攪拌されます。そこに、個人や一族や仲間たちは愛を求めて漂流します。

強引に、横道にそれますが・・・

日本に、この百年をあてはめます。例えば、昭和を起点にした現在(1926-2026年)を顧みると、江戸の終わりに列強に開国を迫られ、維新を行い、富国強兵や殖産興業に努め、防衛的な戦争から覇権的な大陸進出を経て、米英との戦争に突き進み、敗戦を迎え、父祖たちの努力で空前の復興を遂げ、経済大国となり、今現在、戦後民主主義のなかで米の属国として隷従している現在でしょうか。そこに時代を生きた人々の物語があります。

『百年の孤独』の物語が描く百年はいつでしょうか?大体1828~1928年辺りのようです。

舞台となるコロンビアのカリブ海沿岸地方は、紀元前から先住民族が住み、文明を形成していました。そこへ15世紀にスペイン人がやってきて植民地化します。

スペイン帝国からの独立宣言が1810年、1819年に大コロンビア共和国、その後、1830年に現在のコロンビア共和国(República de Colombia)が誕生しますが、長い内戦の歴史があります。

作中、エポックとして描かれるのが、自由党(農民側)と保守党(地主側)の二つの党の戦い、千日戦争(1899年~1902年の1100余日)です。

独立後の産みの苦しみとしての国家と人々の歴史がテーマだと思います。

物語では、マコンドは政府と対峙します。反乱軍(自由党支持)の新たな町長兼司令官として甥のアルカディオが任命され、アウレリャノは大佐となる。そして熾烈な戦いが始まります。

これは歴史上の事実であり、ガルシア・マルケスの祖父ニコラス・マルケスも自由党支持者としてこの戦いに加わっています。これが、アウレリャノ大佐のモデルですね。幼いころに、祖父からたくさんの武勇伝や逸話を聞かされたことでしょう。

イデオロギー、立場の違い、異なる利害、膨らむ憎悪。劣勢な自由党を引き継いだアルカディオは若き暴君となり、ウルスラは、わが子の狂気に怒り狂い、つかの間、町の支配者にとってかわります。

ウルスラは、ずっと栗の木に縛り続けられている始祖のホセ・アルカディオ・ブエンディアと語りかけます、こんなはずではなかったと・・・・

マコンドは政府軍の猛攻のもとに崩れ、ブエンディア大佐は政府軍に囚われます。

『百年の孤独』の冒頭の有名な一文。

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つ羽目になった時おそらくアウレリャノ・ブエンディア大佐は父親のお供をして初めて氷というものを見たあの遠い日の午後を思い出したに違い 。

囚われの身となったブエンディア大佐の心象です。 戦争で人々は次々に死んでいきます。もう一方では、恋に苦しみに傷つき、死んでいきます。その死とは、名誉や愛のため、つまりは自尊心のためなのでしょうか。

民衆の支持をえるために政策を変える。すると戦争の意味が失われる。そして戦いは、 政権を獲得すること、つまりは権力を得ることだけが目的化します。

アウレリアーノ・ブエンディア大佐は自分自身の解放のためだけに戦っていた。

降伏の調印を終えて、自ら拳銃の引き金をひいたが、急所にあたらずに弾は貫通し死ねなかった。悪寒を抱えたまま、意匠を凝らした金の魚を作っては潰す隠棲生活に引きこもります。ブエンディア大佐は、32回も反乱を起こし、32回すべてに敗れます。

権力の魔物に取りつかれて夢破れ、金細工をつくる日々のなか放心状態となります。

ホセ・アルカディオ(性の英雄)、アウレリャノ(大佐)の兄弟と、占い師ピラル・テルネラと間にそれぞれの非嫡出子(ひちゃくしつし)が生まれます。一方のアルカディオは若き暴君と化しますが、敗れて、銃殺刑となります。もう一方の叔母のアマランタを慕うアウレリャノ・ホセも暗殺されてしまいます。ここが第三世代です。

物語は第四世代となり、双子のホセ・アルカディオ・セグンドとアウレリャノ・セグンド、そしてレメディオス(子町娘‐<アウレリャノ大佐の正妻と同じ名前>)という三人の子供たちの時代になります。

ウルスラは一家の長い歴史で似たような名前が執拗に繰り返されることについて-(ほんとうに、この物語は同じ名前が何度も登場し、未読で、この動画をご覧いただいている人は混乱されるのではと思います)ー

この事実から、アウレリャノを名乗る者は内向的だが頭が良い、一方ホセ・アルカディオを名乗る者は衝動的で度胸はいいが悲劇の影がつきまとう。という、ひとつの法則のようなものに辿り着きます。読者も、アウレリャノの系列か、アルカディオの系列かで読み分けると分かりやすく面白いと思います。

ウルスラは、母系社会の長として一族を冷静に観察しています。血、遺伝、性格、行動、その先へ・・・。

双子は、一冊の本に記された不思議な挿話に興味を持ちます。

アウレリャノ・セグンドは幻想の中に現れたメルキアデスといつも会話し、ホセ・アルカディオ・セグンドは銃殺の夢を見る。

さらに第五世代を迎え、アウレリャノ・セグンドとフェルナンダの間に長男が生まれます。

名前はホセ・アルカディオ(神学生-同じ名前が多いですね・・・)と名づけられます。 ウルスラは、一家の没落の原因は、四つの厄災と考える。それは、戦争、軍鶏、性悪な女、途方もない事業と考え、これとは縁のない人間として、一族の名誉の挽回のため、この長男(ホセ・アルカディオ)を自ら坊さんに育てることを決心します。

一方、アウレリャノ・セグンドは、大金持ちになっていきます。これは、なぜか占い師でもある情婦のペトラ・コステスのおかげです。

この時、マコンドは奇跡のような好景気に見舞われます。

兄のホセ・アルカディオ・セグンドはマコンドに水路を開きます。賑わうカーニバルのなか、レメディオスは女王に選ばれます。マコンドの人々は、新発明の品々のあまりの多さに目移りします。青白い電球、灯る明かり、機関車、活動写真、蓄音機、電話・・・。

ひとりウルスラだけがこの異常さを心配し「この世の終わりが近づいている」と感じます。

この『百年の孤独』の物語を、ウルスラの目線で捉えることもおすすめです。ウルスラは、家を綺麗に保ち、食事をやりくりし、たくさんの子孫を見守っています。性急な町の発展が、物欲や性欲という人心を乱すもとになることを恐れています。

その最大の懸念は、もちろん―あの豚のしっぽが生えてくる―という禍です。

やがてレメディアスも昇天し、アウレリャノ・ブエンディア大佐も死んでいきます。自分の死装束が完成したことでアラマンタもまた死んでしまいます。

金を得て放蕩三昧のアウレリャノ・セグンドとフェルナンドの間に生まれた三女は、アラマンタ・ウルスラと命名されました。

もう一つの大きな事件。1928年にカリブ海沿岸の町シェナガで起こったバナナ農園労働者のストライキとそれに伴う虐殺です。

所謂、バナナ農園とは現地の住民や移民労働による大規模農園(プランテーション)を意味します。そこには資本家の搾取があり、労働者は低水準の暮らしに明け暮れることになります。

『百年の孤独』は、実在するバナナ農園の名前を、小説では架空の村マコンドとし、ガルシア=マルケスの生まれ故郷のアラカタカと、青春時代を過した港湾都市バランキージャの記憶が中心になっています。

マコンドに鉄道が敷かれ、新しい技術と多くの外国人移住者がもたらされます。

アメリカ資本のバナナ農園が隆盛を極めます。次第に労働条件の過酷さから労働者が抗議し、ストライキを起こします。現場監督であったホセ・アルカディオ・セグンドは、立場を変えて、労働者の側に立ちストを計画します。すると秩序を乱すアナキストとして政府から狙われるようになります。

政府と繋がる企業が軍の派遣を要請し、3,408人の大虐殺が起こりました。

死体は二百両編成の列車で運ばれ、海へ捨てられます。しかし、惨劇は揉み消され、何もなかったこととされる。誰に聞いてもそんなことはなかったと答える。

これも史実です。ユナイテッド・フルーツ社をモデルにしたバナナ会社の繁栄とともに、現地人を軽蔑の目で見下しながら豪華な列車に乗り込むバナナ会社の社長の姿は、「ラテンアメリカの植民地的搾取と悲劇の象徴」です。

九死に一生を得たホセ・アルカディオ・セグンドは、部屋にこもり、メルキアデスの残した羊皮紙の解読を始めます。

その後、四年十一か月と二日、雨が降り続きます。一族の家もマコンドの町も長雨のせいでボロボロになっていきます。雨がやんで、今度はカンカン照りの六月が三年ほど続きます。

そして十年間の干ばつが始まります。マコンドは廃墟も同然の姿になっていきます。バナナ会社は閉鎖されアメリカ資本は撤退します。ウルスラも亡くなってしまいました。

ウルスラは百年を超えて生きていたことになります。正確には百二十くらいの計算になりますね。凄い!

結果的には、メメ(レナータ・レメディアス)とバナナ職工だったマウリシオ・バビロニアの私生児として生まれたアウレリャノと、最もウルスラの血を引くアラマンタ=ウルスラだけが生き残ります。

二人は激しく愛し合います。

そして子供が産まれます。以下は、七世代目にあたる最後の者となるアウレリャノ(同じ名前ばかりで分かりにくいですが・・・)が生まれた瞬間の描写です。

この百年、愛によって生を授かった者はこれが初めてなので、これこそ、改めて家系を創始し、忌むべき悪徳と宿命的な孤独をはらう運命をになった子のように思えた。

今度こそ、自然な愛の賜物だったのでしょう。しかし、二人は、甥と叔母という関係でした。

あの最も恐れていたことが起こります。

生まれた子供のお尻には、豚のしっぽがついていたのです。

禁忌を破った祟りがついに・・・、そして破滅が訪れます。

アマランタ=ウルスラは出産で亡くなり、最後の者、アウレリャノは死んで、その亡骸は蟻によって運ばれていきます。

この一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる

残されたアウレリャノ(私生児)が羊皮紙の解読を終えた瞬間に、蜃気楼の町マコンドは嵐とともに消滅してしまいます。

このことはメルキアデスの羊皮紙に記されていた通りに起こったのでした。

読者は黙示録に立ち会います。一族の物語全体が予言の書をなぞっていったのでした。

最後は、「愛によって生を授かった」と思ったのが、豚のしっぽという絶望とともにマコンドもブエンディア一族も滅んでしまうのです。

人間の歴史、その欲望、業による運命、それが、世界を創り、そして壊していく。

悲劇的な結末となりました。しかし、私は少し違うことも考えました。

マコンドに生きた人々は、西洋の宗教と科学に晒され、近代化が進められます。隆盛を極めますが、やがて対立や諍い、搾取や抵抗、そして殺戮が起こり、最後に全ては消滅をしました。

しかし、一族は、自由を愛し、名誉を守り、生き、そして死んでいったのです。

確かに、そのこと自体が、大いなる孤独の営みかもしれない。この「孤独」を「独立」と置き換えてみるとどうなるか・・・。これは誇るべきことではないでしょうか。

では「独立」とは何か? それは闘いであり、闘いは幸福の追求であり、これまでの従属から開放を求めることです。

「ナショナル(national)」はラテン語の「natio(生まれ・人種)」に由来し、「同じ土地に生まれた人々」を意味する言葉です。

「パトリオティズム」の語源は、ラテン語の「patr-(父)」に由来し、「Patria(故郷)」は、父祖の地や郷土を意味します。

その意味では、闘いにおける、孤独の根っこは、愛の希求だと思うのです。

ひとり、ひとりの小さな物語は、歴史のなかで、永遠の孤独にさらされ続けている。ただし、この孤独は、自由と尊厳という独立を勝ち得るために実践している。

愛し、求めれば求めるほどに、人はからめとられ孤独の淵へ墜ちて行ってしまう。まるで魔法にかけられているように・・・身動きができなくなる。

それは、アメリカの作家、ウィリアム・フォークナーが、ミシシッピ州の架空の土地「ヨクナパトーファ」を南部の象徴としたように、ガルシア・マルケスもまた架空の町マコンドをスペインから独立したコロンビアの象徴として、さらにはブエンディア一族の百年の歴史をコロンビアの人々の自由と名誉の闘いの歴史として読むこともできます。

孤独という言葉は、作品の随所に出てくる。でもよく考えれば、説明しにくい言葉です。

最期のほうで、素敵な個所を見つけました。

どの土地に住もうと、過去はすべてまやかしであること、記憶には帰路(きろ)がないこと、春は呼び戻すすべのないこと、恋はいかに激しく強くとも、しょせんつかの間のものである ことなどを、絶対に忘れぬようにともすすめた。

これって、孤独ですよね・・・。しかし、それが愛ゆえのことのような感じもします。

『百年の孤独』(One Hundred Years of Solitude英)の「孤独」は、「loneliness」ではなく「solitude」となっています。

「loneliness」には寂しさを伴う否定的な状態を感じますが、「solitude」には、自発的で肯定的なニュアンスがあります。『百年の孤独』の登場人物には自由意志があり、自尊心や自己愛を感じます。

史実に基づきながらも、痛快で、ユーモラスで、笑いがいっぱい・・・そして気づきます。人間は孤独を愛しているということをマジック・リアリズムの魔法にかけられながら読む『百年の孤独』

スペイン、インディオ、黒人、それぞれの血や文化が混ざり合い、戦争や搾取の歴史があったとしても、コロンビアの人々は国家と自由を愛しているはず。

一族の愛と名誉の壮大な叙事詩は、カリブ海沿岸の地域の物語であり、ひいては国家の物語です。世界の物語は、人間の物語とともに存在しているのですから・・・。

ドストエフスキー『罪と罰』全体テーマ|人間の心では、神と悪魔が闘っている
人間のつくった罪刑法定主義としての「罪と罰」そして、もうひとつ神の真理としての「罪と罰」。「非凡人は、よりよき人間の未来のためには、人を殺しても構わない」という選民思想のナポレオン主義の哲学をうちたてたラスコーリニコフ。魂を殺した彼は甦ることができるのか。