北海道の幌舞駅長の佐藤乙松は、妻の最期も、娘の最期も看取れずに、鉄道ひと筋の人生だった。定年を間近に迎え人生を振り返るひととき、ふと目の前にあらわれた人形を抱いた女の娘。天職に一途に生きた”ぽっぽや”を高倉健が寡黙に演じる。
解説
鉄道ひと筋の人生、乙松は誇りをもって”ぽっぽや”と自らを言う。
蒸気機関車が、もくもくと黒煙を上げ、警笛を鳴らしながら走り抜けていきます。
缶焚は機関車を走らせるための火夫の仕事です。重いシャベルで高熱のなか、石炭を火室内に運ぶ重労働です。晴れの日も、雨の日も、雪がふぶく日も、男はD51と共にありました。
乙松が駅長を務める「幌舞駅」は北海道の幌舞線の最終駅。かつては炭鉱の町として賑わったが、今は過疎となり、わずかな人々を乗せてディーゼル車<キハ40-764>が走っています。
佐藤乙松 は、もうすぐ定年を迎える、親子二代の鉄道員です。
ムネは、幌舞駅のすぐ傍で食堂 ”だるま屋” を営むが、客はめっきり減り、店をたたもうと考えます。養子の息子、敏行はイタリアへ数年間、料理の修行に出るという。
幌舞線は輸送効率と採算の問題で廃止が決定している。かつては幌舞炭鉱から石炭を運び出すドル箱路線で、一昔前の幌舞は、たいした賑わいだったが閉山で町は廃れ、路線の乗降客もほとんど無くなった。
幌舞線の歴史と同じように、乙松の鉄道員人生にも、終わりが近くなっていた。
乙松の父親は、戦後復興の重要な役割として貨物を中心に人々を運ぶ鉄道の仕事に誇りを持っていた。乙松も、父の背中を見て育ち憧れの鉄道員になった。そこには敗戦日本をもう一度、立ち上がらせるという大きな使命感があった、当時の幌舞は産炭地だった。
原野を鉱山とし石炭を掘り燃料にする、石炭からコークスを生成して高炉のエネルギーとして製鉄に用いる。そこに集う人々、その貨物や人を乗せる鉄道の仕事は、まさに近代化を担う天職でした。
乙松には、気の置けない杉浦仙次 がいます。 仙次も鉄道ひと筋で、乙松とは苦楽を共にした親友です。仙次の息子秀男はJR北海道の札幌本社に勤めるキャリア組の幹部候補です。
乙松と仙次の二人は、互いを ”乙さん” ”仙ちゃん” と呼びあう気心の知れた仲良しの同僚でした。
乙松は妻の静枝にも娘の雪子の死に目にも会わず、ホームに立ち続けた。
乙松は、妻の静枝 との間にやっと授かった愛娘、雪子を生後わずか2カ月で亡くしてしまいます。雪子が死んでしばらくして、17年も連れ添った静枝も病気で亡くなります。乙松は、娘の死も妻の死も、看取ることができませんでした。
一人娘を亡くした日も、愛する妻を亡くした日も、乙松は幌舞の駅に立ち続けたのです。
静枝の看病をしてくれた仙次の妻の明子 は、仕事中心のそんな乙松を詰ります。何故なのでしょう?
死に目にもあえない理由を、あらすじを追いながら、乙松の言葉から解説してみます。
乙松は「俺は、” ぽっぽや” だから身内のことで泣く訳にはいかない」と言います。
仙次は “げんこの代りに旗を振り、涙の代わりに笛吹きならし、喚く代りに裏声しぼる。” と鉄道で働く男の歌をうたう。仙次には、乙松の ”ぽっぽや ”の気持ちが解っています。
何故、妻や子を看取ることもせずに、ホームに立たねばならないのか。
それは乙松が、この幌舞駅と幌舞線をかけがえのないライフラインと考えるからです。そして過疎地になった今も、乙松は採算効率という考えには納得していません。乙松の気持ちは ”ひとりの乗降客のために” そしてひとりひとりに訪れる人生の時間のためにという思いです。
鉄道員として常に安全に運行することが使命なのです。鉄道や、水道や郵便など国の運営には本来、そのような命綱の意味合いがありました。この ”公” を理解しておく必要がありあす。
乙松は、この ”公” を優先して、子どもの死に目にも、妻の死に目にも会えなかったのです。
気に止めることの少ない公共のサービス。鉄道員の仕事は、毎日、事故無く、時間に正確に、安全に人々を送客するという使命感があり、採算性が低く、交代要員のいない小さな幌舞駅では、やむを得なかったのです。この前提を共有しなければ、乙松の胸に秘めた人生は分かりません。
寡黙な乙松は、持病の心臓病を患いながら、最後の鉄道員として、定年までの職務を全うします。
仙次は、鉄道員を卒業した後も、乙松を再就職させようと大晦日に説得のために訪ねてきます。
それは雪の国から乙松へ、父親に感謝する三人の雪子の贈り物だった。
一夜明けて、年が新たまります。乙松と仙次は、二人きりでささやかに新年を祝います。
仙次は、格上のターミナル駅の駅長なので、来年退職でトマムリゾートへ重役での天下り先が用意されています。乙松にも一緒に働こうと誘います。
乙松は遠慮して「鉄道のことしか知らんし、体で覚えてきたことばかりで、横滑りのきかないことばかり」と応えます。
乙松は、昔のことを思います。組合争議の合理化反対ストのとき、集団就職の列車を走らせたことです。「あんなに小さい子供たちが働きに出るというのに、俺たち、ぽっぽやにできることは鉄道を走らせることだけだった」と、当時を語ります。
仙次も若い頃は、腕っぷしが強く炭鉱夫相手に喧嘩をしたものでした。ある時、九州の筑豊からやってきた期間工の炭鉱夫の吉岡が、合理化で一番先に首切りにあって荒れて正規の工夫と、だるま食堂で喧嘩になり、それをとめた出来事を思い浮かべます。
定年を迎える二人は、長い鉄道員人生をお互いに懐かしく話します。
期間工は落盤事故で死に、息子の敏行は、だるま食堂の養子となります。そしてその敏行は、いよいよイタリアレストランをオープンします。名前は ”ロコモティーバ” 、機関車という意味です。照れくさそうに乙松や皆にお礼を言います。
乙松は、仙次の気遣いはありがたいが、「ぽっぽや以外の人生を考えていない、静子や雪子が死んだ、ここで自分も死にたい」と言います。
秀男は「幌舞線の廃止が早まり三月いっぱいだという」そして乙松に「雨の日も雪の日も送り向かいしてくれことを、上手く言えないけれど、おじちゃんに頑張らせてもらったこと」を心から感謝する。
乙松は秀男に「おまえもぽっぽやだべ、幹部としてもっとやることあるべ、がんばれ。ありがとう」と礼を言う。
そして不思議なことが起こります。乙松の前に、雪子の生まれかわりが現れたのです。
可愛い幼少のころ雪子、元気でおませな小学六年生のころの雪子、そして大人になった美しい十七歳の高校生の雪子と、三人の雪子が、乙松の前に現れます。
三人とも鉄道や ”ぽっぽや” が大好きです。幼少の雪子は、無邪気に手旗信号を真似てみせ、小学校の雪子は、乙松にキスをして、高校生の雪子は、鉄道マニアで乙松に手料理もつくってくれました。
それは生後二カ月で死んだ雪子の短い人生や、申し訳ない思いでいっぱいの静枝に対して、幌舞の雪国が、乙松に幸せな贈りものをしたのです。
生きていれば十七歳の雪子が、幼少の時代、中学校に上がる時代、そして大人になっていく今を、成長の節目を乙松に見せてくれたのです。
そして ”ありがとう、お父さん” と、鉄道員の乙松の人生に感謝します。
それは、一緒にいることはできなかったけれど、幌舞の駅で、人々の人生を応援し見守り、安心や安全を鉄道に乗せて、 ”ぽっぽや” を全うした乙松の人生への、雪子からの感謝でもありました。
乙松は、「静枝も雪子も死なせてしまい、勝手に生きてきたのに、皆によくしてもらって幸せだ」と、涙を浮かべしみじみ語ります。
今日も吹雪くホームの上で、もうすぐ鉄道員を卒業する乙松は、幌舞駅も幌舞線も、雪子との思い出も大切に胸にしまいながら、ぽっぽやとしての幸せな一日を終えることができました。
“異常なし”と業務日誌に綴り、乙松は雪のホームで死んでいきました。
流れる口笛が、”テネシーワルツ” であることも高倉健の情感や人生を漂わせます。
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