映画『おくりびと』|静謐で美しく繊細な、納棺師という仕事。

納棺を執り行う「おくりびと」の様式美。身を清め、仏衣を着せ、顔を整え、死に化粧をする。静謐で美しく繊細な心と所作で死者を葬る納棺師の仕事。この世に「生」を受け、そして閉じ、死出の旅路に葬る。これも日本の美であると思う。

解説

死者を弔うことが簡便化されている、現代人に問いかけるもの。

「死」は、人間にとって「生」と同じように、身近なものなのに遠くなっている。

この映画では、納棺の儀式が、ひとつの様式美として完成されている。

現代の平均寿命前後に亡くなる高齢者の死の一般的なイメージは、老齢で体が不自由になり施設や病院に入り、介護や薬で延命され、最期は多く病院で亡くなる。世界で最も高齢人口比率の高い日本の姿である。

死者の弔い方が変わる。そこには近代産業化による人々の田舎から都市への流入、そこでの家族構成の変化や住居事情の問題、さらには時間価値を即物的な生産性ではかる生活様式では、「死」を迎えた後での様相が変化している。

極端な例として都心では「直葬」という供養の形も現れている。病院から葬儀社へ、そして通夜のみを行い火葬場へ直接に向かう。「死」をとむらう慣習行為すらも、諸事情で簡略化される。

葬儀場と血族の住いが遠距離であること、参列者も高齢となったこと、そこに連なる檀家制度や菩提寺など諸事情は、以降に続く墓の建立や墓守の管理の問題など、まさに時代を反映させている。

その意味で、この映画「おくりびと」が世の中に問う意義は大きい。

訃報に接して、通夜に参列した経験は多くの人があるだろうが、おくりびと・・・・・という納棺師に遭遇することは、あまりないと思う。葬儀社の供養の細目に似たような行為があるくらいではないのか。

昔は祖父母などの死に際して、大家族が集い、体を拭き身を清め、詰め物を行い、白い死装束を着せ、わらじを履かせ、死に化粧をするのを、傍らで見たり自らも参加したりして通夜を行った経験はあるかもしれない。この部分は、現在は葬儀社で行われる。

火葬までの遺体の状況を管理しながら、遺体の見栄えを整える。ドライアイス等で内臓や体全体を冷やし、腐敗の進行を抑えたり、表情を整え化粧をして、衣装を着替えさせ、納棺する。

映画では、これがひとつの職業(納棺師)として紹介され、様式美まで高められている。

始まりは船舶事故がきっかけで、札幌に「納棺協会」が設立された1969年ごろということで、時代的には半世紀くらい前に起こった職業ということである。

あらすじを追いながら、死をけがれと考える近代というのっぺらな時代を主題として解説をしてみたい。

映画の中では、都会でチェロ奏者の音楽家だった大悟が、楽団がつぶれて、故郷の山形県酒田市に帰り職探しをする。求人募集がままならないNKエージェントに、仕事の内容も理解しないまま面接に行く。

「安らかなのお手伝い」との宣伝文句は、「安らかな旅立ち・・・の旅のお手伝い」の間違いで、死出の旅路の世話をする「納棺師」という仕事だった。

大悟が6歳のときに、父親は女をつくって蒸発し絶縁の状態で、母親は2年前に洋行中に亡くなっており、死に目に会えなかった。祖父母も早く亡くなり、大悟は棺桶をよく見たこともなかったが、いろんな種類やランクがあることを知る。

納棺の仕事は、遺族が自ら行っていた旅支度が、葬儀屋へ、そして葬儀社からその先へ依頼されることで納棺業者という職業ができたことを知る。

大悟は、まずはアシスタントして社長の佐々木について、納棺を経験する。

初仕事は死後2週間の一人暮らしの老婆の遺体だった。異臭漂うなか、嗚咽しながらも、なんとか佐々木の助手を務める。

その後、大悟は、はじめて納棺の儀に立ち会い、佐々木の仕事の姿を見る。

体を拭き、仏衣を着せ、死に化粧をし、最後に故人が使っていた口紅で唇に紅をさす。それは、冷たくなった人間を蘇らせ、永遠の美を授ける儀式のようだ。佐々木は、冷静で正確で丁寧にすすめていく。そのすべての所作は、静謐で美しかった。

「死」を “穢れ” とするか “浄め” とするか、儀式を失えば意味も消える。

映画では、東京から酒田市に引っ越してきた美香や、実家の銭湯を建替えようとする山下が、大悟の納棺師の仕事を忌み嫌う。それは「けがらわしい」という気持ちであり、近代人の考え方として描かれている。

大悟の妻の美香は、チェロ奏者として世界を旅しながら暮らす憧れもあり結婚したが、故郷で暮らすことも快く受け入れていた。

しかし大悟の納棺師の仕事を知り、「けがらわしい、触らないで」と振り切り実家に帰ってしまう。親友の山下も、小さな町で「噂になってるぞ、もっとましな仕事につけ」と大悟に忠告をする。

この美香の気持ちは、ある種、偽らざる現代人の多くの考え方だろう。ここに、私たちにとって、「死」が現実の世界にあり、人生の終焉であり、衷心から悲しみのなかに在るが、それが他人の死であれば低関与、非関与でありたいと願っていることも事実である。

つまり人間としての冠婚葬祭の範囲のなかでの、慣習としての社交の出来事である。

仕事を続けるかどうかを悩む大悟に、佐々木は9年前に愛した妻と死別し、納棺師のキャリを持ったことを話す。生きていくもの、死んでいくもの、そこには佐々木の死生観があった。

母を裏切り女と逃げた父を憎む大悟に対して、NKエージェントの事務員である百合子(余貴美子)は、帯広の出身で子供を捨て、山形に流れついたことを告白し、人生を終えるときは佐々木に納棺してほしいと話す。

人は生命を開き、さまざまな人生を描きながら、そして生命を閉じる。

山下はいつも母親と口論をしていた。銭湯「鶴の湯」を古くから営む母ツヤ子(吉行和子)は、町の皆が困らぬように死ぬまで銭湯を続けると頑として譲らないが、山下はマンションに建て替え、母親に楽をさせたいと主張する。そんな口喧嘩のさなかにも、50年来の常連の平田は湯上りで、のんびりくつろいでいた。

雪解けのころ、美香が戻った。大悟の子を宿していた。美香はまだ大悟が納棺師の仕事を続けることに対して、生まれて来る子供のためにも悩んでいた。

そんな時、ツヤ子が倒れ、亡くなる。納棺の儀を大悟がつとめる。厳かにすすめられた儀式に、山下は感謝し涙し、美香ははじめて大悟の仕事を誇り高く思う。

火葬場の担当は、平田だった。平田は小さな声で「ありがとな、また会おうの」と呟き、棺桶の窓を閉めて焼き場の中へツヤ子の亡骸を送った。釜のなかを見る山下は号泣した。

おくりびとを、神官のような儀式と捉えれば、死を「けがらわしい・・・・・・」とは思わないはずである。生と同じように死も自然であり、弔いの儀式として受け入れる。命の誕生のとき、人々は喜ぶ。生と死は、繋がっているので、そこを繋ぐ役割の仕事は、神さまと繋がると考えるほうが自然である。

それは柳田国男の「民話の世界」や、折口信夫の「まれびと」の考え方にも通じるものがある。

納棺師は職業としてまだ数十年の歴史だが、その行為としては、古来から人間の生死の繋目を扱う行為で、生死の儀式としても捉えることができるはずである。

いよいよクライマックス。桜の花が散るころ、電報が来た。受けとった美香は、大吾の父親が死んだことを知る。逡巡する大悟に、会いに行くように百合子は促し、佐々木は棺桶を贈る。

大悟と美香は父親の亡骸と再会する。そこは寂しい漁師町だった。父は女とはすぐに別れて、母子を偲びながら、静かに懸命に生きていたことが分かった。

忙しく遺体を納棺しようとする地元の葬儀社に対して、美香がそれを制止する。大悟は納棺師として、納棺の儀を執り行う。それを優しく見守る美香。

こうして二人は、新しく生まれてくる命と共に、支えあい生きることを誓い物語が閉じられる。

民族にそれぞれの因習がある。西欧の宗教的な儀式や日本古来の神仏の儀式の他にも、ノマド(遊牧民族)の死の迎え方やチベット仏教の鳥葬など世界にはさまざまにありそうなことは容易に想像できる。

生者と死者。そして死者をおくる儀式は、人間のみが執り行う祈りの儀式として重みを感じる。

死は、生があったことを教えてくれる事実である。納棺の儀式が行われることで、人々は心の整理をつけていく。生から死へ、そしてその死となった肉体をおくる。この映画は、茶や花や能のような日本の様式美を「納棺の儀式」として伝えてくれる。

生と死の境、別れ、静寂と美しさ。納棺の儀式が、ひとつの様式美として完成されている。素晴らしい日本を意識させた作品でもある。