映画『ニュー・シネマ・パラダイス』|映写室を愛したように、自分のすることを愛し続けるということ。

いつも映写室のなかで過ごした日々。大人になったトト=サルヴァトーレは30年ぶりにシチリアに帰郷します。アルフレードの言葉通り、長い年月を経たことで、懐かしい思い出に再会できた。夢を実現したトルナーレ監督自身の、映画と人生に込めた愛の物語。

解説

シチリアの小さな村にいる限り、夢を実現することはできない。

人は、自分のすることをいつまでも愛し続けることは難しいことなんだなと思う。子供の頃に夢中でいたことを、大人になってからもさらにずっと夢中でいられるか。お金を得て生きていく事が、現実である以上、生き方と金の関係もあり難しい。

異性に恋をしたり、友情を大切にすることは人生にとってかけがえのないことだが、最大の自己実現の喜びは、自分のすることを愛し続けることだと教えてくれる。

映画という芸術の世界ならば、尚更だ。映画が好きなことと、映画で身を立てて、例えば映画監督で、有名になれることは違う。この有名になる=素晴らしい作品を世に送り出すことだ。

そんな映画への愛を自伝的に描いた作品が『ニュー・シネマ・パラダイス』だ。

映画監督として名を馳せたトルナーレ監督自身が、人生を映画に捧げ、夢を実現し、自分のすることを愛し続けた自伝的な作品だ。

物語は、大人になりローマで映画監督として活躍するサルヴァトーレのもとへ、母からの電話があり、アルフレードが亡くなったことを知らされるところから始まる。サルヴァトーレが幼少にトトと呼ばれていたころの、戦後のイタリア、シチリーの小さな村の出来事に時間は遡る。

アルフレードは映写技師だった。トトは映画に夢中で、今日も映写室の中にいる。

アルフレードは、仕事の邪魔なのでトトを追い出そうとする。しかしあまりの熱心さに、ついに根負けして、やがてトトとアルフレードは仲良くなる。

戦後間もないなか、娯楽らしいものは何もなかった。村に在る教会で映画が鑑賞できた。映画だけが人々の唯一、何より楽しい娯楽だった。今日もアルフレードは映画を上映する。予め神父は、キスシーンを検閲して、そのシーンをカットするように指示している。

映画のフィルムは、数かんに小分けされており、ひとつひとつのコマと呼ばれるものの連続で繋がっている。キスシーンは、カットされコマ切れギレとなる。戦後という時節柄、また教会という場所柄、人々の欲望をあおるシーンは上映が禁止されている。

アルフレードは、キスシーンのコマをカットして、別のかんに貯めている。観客は、キスシーンがカットされた場面が来るとブーイングをする。トトはコマ切れを欲しがるが、アルフレードは大人に成ればなと適当にあしらいごまかします。

こうして、シチリアの村の人々は、スクリーンに映される恋愛もの、人間ドラマ、喜劇、西部劇、コメディなどの映画を観ては、自由で開放的な雰囲気に、泣き、笑い、歓声をあげ、いつも賑やかに鑑賞した。

それは、小さな村から覗く豊かな憧れの世界でもありました。

トトは、眼を輝かせ観ており、俳優のセリフをそらんじるほど映画の世界に熱中します。アルフレードは映画のことを教えてくれる先生であり、友達でした。トトは映画の名セリフを通して、人生を学んでいきます。

トトの母親マリアは、ロシアの戦地に赴いたまま行方知らずの夫を待ち続けています。マリアはトトと妹を育てることに懸命で、映画に夢中でお使いを忘れ、お金を落としたトトを叱りつける。そしていつも一緒にいるアルフレードにもあたる。

子供のとき映写室を愛したように、映画を創ることを愛し続けたトト。

父親の戦死を伝えるしらせが来ます。悲しみにくれる母、トトは父親を失います。それでもトトは、アルフレードを父親のように思いながら、映画への熱狂は止みません。

ある時、フィルムに引火して映画館は火事になります。火を消し止めようと逃げ遅れたアルフレードは火傷を負い、視力を完全に失います。映画館は全焼してしまいます。

篤志家によって建て替えられた映画館は「ニュー・シネマ・パラダイス」と呼ばれ、トトは、アルフレードに代り、映写技師として家族を養うために働くことになります。

やがて青年となったトトは恋をします。相手は青い眼の美少女エレン。手にし始めた8mmカメラでエレンをもの陰から映すトト、何とか恋を打ち明けたいとアルフレードに相談します。恋は成就しますが、やがて彼女はパレルモに行ってしまいます。

会えない日が続くなかで、嵐の夜に、エレナはトトに会いに来ます。二人は幸せで強く抱き合います。
しかしトトは入隊しローマにち、エレナと会えなくなります。村に戻ったとき、エレナの消息は分からず、「ニュー・シネマ・パラダイス」の映写技師の仕事も別の男に変わっていました。

エレナも行方知らずのままで、失意のトトに、 アルフレード は非情にも言い放ちます。

「エレナは、トトとは合わなかったのだ、そういう運命だった」のだと。

村を出ろ。ここは邪悪の地だ。

ここにいると自分が世界の中心だと感じる。何もかも不変だと感じる。

人生は、お前が見た映画とは違う。

人生はもっと困難なものだ。

もうお前とは話さない、お前の噂を聞きたい。

トトは戸惑いますが、それが、アルフレードが示すトトへの愛情でした。

帰ってくるな。私たちを忘れろ。手紙を書くな。

ノスタルジーに惑わされるな。すべて忘れろ。

自分のすることを愛せ。

子供のとき、映写室を愛したように。

この時のアルフレードの言葉は、後のトトの人生を決定づけます。非情な言葉のように感じます。トトと二度と会うことはないと言っています。友人で父親代わりでもあり、盲目となり世話が必要なアルフレードを、トトは愛しながらも、言葉通りにひとり、ローマを目指して旅立ちます。

アルフレードは、映写技師を仕事にしていますが、小学校卒業検定を受けています。トトにも劣る学力のようで、ある意味では、技師の仕事しかなかったのかもしれません。

アルフレードは、トトにこの村で映写技師で終わることを薦めていたわけではありません。

トトは、アルフレードを見て、フィルムを機械に巻き、繋ぎ、上映する方法を覚えました。そして素晴らしい映画の世界へ入り込んでいきました。

きっとアルフレードの見えない眼には、俳優のセリフをひとつひとつ諳んじ、映像や音楽に感嘆する小さなトトが、やがてローマに出て立派な映画の仕事をすることを信じ、瞼に浮かべていたのでしょう。

確かにエレナとの初恋は、淡くせつなく燃えたものでした。アルフレードに相談し、「青い眼の女性は最も手強い」とハードルを上げられて、それでも打ち明け方を教わり、「王女と兵士のおとぎ話」を真似て、エレナの窓辺でトトは待ち続けます。

成就した恋愛も束の間、親の反対で付き合いを遠ざけられ、孤独な思いに過ごしたことも、そして嵐の夜に結ばれたことも、約束の時間に現れなかったことも、トトにとって苦く辛いものだったけれど、美しく永遠のものだったのでしょう。

現在のサルヴァトーレにとっては映画監督としての体験のひとつなのです。エレナと過ごし経験した現実は、表現者のトルナーレにとっては芸術の題材にもなるのです。

夢を実現したからこそ、過去も現在と変わらず時間が生き続けている。

そうしてアルフレードの葬式に向かうために、30年ぶりに故郷のシチリアに降り立ちます。

あの日のアルフレードの言葉通り、故郷はいま懐かしく感じます。ローマで映画監督として成功したサルヴァトーレを村の人々が見つめます。葬儀の列に、懐かしい人達の老いた顔があります。「どうしたの」と訊ねると、「偉くなられたから声がかけられない」と人々は答えます。

「昔のままだ」と言うと、人々は気安く “トト” と語りかけます。映画が唯一の娯楽の時代は過ぎ去り「ニュー・シネマ・パラダイス」は取り壊されます。過去を訪ねるように映画館を訪れる “トト= サルヴァトーレ”、エレナの幻影のなか、遠い日を思い浮かべます。

気丈な母マリアは、サルヴァトーレの人生の選択を応援しながらも、独身であることを心配し結婚を願っています。サルヴァトーレは、シチリアに帰ってみても、何も変わっていない。ずっと村にいたようだと語ります。エレナは、思い出の中に生き続けています。

トト= サルヴァトーレは、アルフレードの教え通り人生を生き、映画を愛し続けたからこそ、帰ってきたシチリアの風景を、昔と変わらずに感じとることができたのです。

中年を迎えるトト= サルヴァトーレ にとって、シチリアも、アルフレードも、エレナも、パラダイス座に映される人生のドラマそのものだったのです。

きっと、あの時のトトのままに、有名な映画監督サルヴァトーレになった今も、アルフレードとの思い出も、映写室も、エレナとの恋も永遠なのです。

トルナーレ監督が人生を愛することは、映画を愛する事であり、それは映写室を愛したあの頃と同じように、自分を愛し続ける姿なのでしょう。

映画は173分の完全版と、123分の劇場版のふたつがあります。

サルヴァトーレは形見を受取ります。それは幼い頃、アルフレードと約束したキスシーンのコマ切れでした。繋がれたフィルムを映写機にかけて鑑賞します。様々な映画のキスシーンが映しだされ、光に照らされるサルヴァトーレの顔が写しだされて、涙がこみ上げています。

それは映写室を愛し、そして30年の歳月が流れても映画を愛し続ける人生でした。

せつなく美しいエンニオ・モリコーネの音楽に、トルナーレ監督の万感の思いが浮かび上がります。