映画『ミリオンダラー・ベイビー』|生とは何か?尊厳死を考える。

100万ドルを獲得する夢と闘い、そして尊厳死という大きなテーマを女性ボクサーのマギー、年老いたトレーナーのフランキーと相棒のエディの視点で描く。尊厳を支柱に生とは何か、死とは何かを考させられるクリント・イーストウッド監督の珠玉の名作。

解説

尊厳のスポーツであるボクシングと、マギーの最後について。

ミリオンダラーに挑戦する夢の物語が、反転、観衆は尊厳死に向き合うことになります。

冒頭にフランキーが、ボクシングは<尊厳のスポーツ> だと定義しています。

優しかった父親が死に、貧しさゆえに家族の愛は消え、金だけの関係となる。残されたのは自身の可能性だけだった。自身のアイデンティティを自身の肉体そのもので挑戦した生き方。マギーが一獲千金を掴むため選んだ手段がボクシングだ。

しかし再起不能となり、家族に幸せを呼び戻すつもりが、家族の絆まで失くし孤独と無力にさいなまれる。

全身麻痺の自身に残された唯一の選択は、その尊厳を守り自死すること。

そこに同じくボクシングを愛したフランキーと相棒のエディが、彼女を支え理解を示す。

フランキーは、神への信仰に不信を抱いてはいるが<善い行ない>を信じている。エディの過去のことも、彼をさらに慎重にさせる。だから体を傷つける危険な賭けにはでなかった。

しかしボクシングの世界では、そこが挑戦者の思いと異なりウィリーのように袂を分かつ。

逆にエディは、尊厳の結果として自身が失明したが、再起不能を受け入れている。

だからこそマギーの気持ちが分かる。練習風景から全戦全勝の破竹の勢い、タイトル戦の獲得、そして全身麻痺という再起不能の絶望のなかにおいてこそ理解できる。

たくさんの人々の生き死にと比較しても、それがボクシングの宿命だと考えている。

そして、本質はフランキーもその思いは同じである。

全戦全勝の勢いで、ついにミリオンダラーのチャンスを掴むが・・・。

それではあらすじを追いながら主題である<尊厳死>を解説してみます。

年老いたトレーナーのフランキーは「ボクシングは、人の尊厳を奪い、それを自分のものとする」そういう熾烈な戦いのスポーツだと考えています。

女性ボクサーのマギー・フィッツジラルドは、ある日、フランキーにトレーナーになって欲しいと願いますが、女性は指導をしない主義だと断らわれます。

フランキーは、ロサンゼルスのうらぶれたボクシングジム “ヒット・ピット・ジム”を相棒のエディと細々と経営しています。 “止血の名人カットマン” と呼ばれる男で、エディもフランキーの指導を受けた元ボクサーで、今は雑用係全般として住み込みで働いています。

フランキーには娘ケイティがいますが、音信不通で父娘の関係は冷めています。毎週、アイルランド系のカトリック教会のミサにも通いますが、神の存在を疑っており真面目な態度ではありません。

エディは彼女の素質を見抜きます。女性ボクサーを育成しない方針のフランキーですが、すでに半年分の費用を受け取っていることをエディに聞き、しぶしぶ納得します。

マギーは32歳になります。彼女はロサンゼルスで13歳からウェイトレスを続け、客の残した食べ物を持ち帰り、自分の食事にしながら半年分のお金を貯めてジムに通っています。

貧しい家庭で、弟は刑務所、妹は不正申請で生活保護を受け、父は死に、母は145キロのデブ、田舎で中古トレーラーの中で暮らすのが相応なところをボクシングに夢を抱き練習していることをフランキーに訴えます。そしてトレーナーになってくれるのなら必ずチャンピオンになれると懇願します。

フランキーはマギーの熱意に根負けしてトレーナーを引き受けます。

こうしてマギーはフランキーと共に100万ドルミリオンダラーに挑むボクサーを目指します。

試合で鼻の骨を折ったマギーに、フランキーは「常に自分を守ること」を伝えます。

フランキーは正式にマギーを自身のトレーニングによってファイターに育てることを決め、さらに厳しく育成していきます。

マギーは試合に勝ち続けます。フランキーとマギーの間には固い絆が芽生えます。

対戦相手が敬遠し始めて、ひとランク上のウェルター級でマギーを戦わせます。最初の試合こそ苦戦しましたが、その後、連続12KO でいいオファーが続きます。

ついにウェルター級タイトルを賭け “青い熊” ビリーが、マギーを指名してきます。

ファイトマネーは100万ドル。フランキーは50:50の取り分でオファーを受けます。

ビリーは東ベルリンの娼婦あがり、汚いファイトで有名です。相手を殺しかねない反則ですが観客は血を見て喜びます。タイトル戦の準備が進められます。

フランキーは幾度も娘のケイテイに手紙を送りますが、宛名不在で差出人のもとへ返却されていました。

フランキーは、マギーと英国のチャンピオンとの試合をアレンジします。

試合の日、アイルランド語で “モ・クシュラ” と背中に刺繍された絹のガウンを、フランキーはプレゼントします。そしてマギーはそれをまといリングに上がります。

若くて強くて経験のあるチャンピオンでしたが、マギーはノックアウトで勝利します。

観衆は、“モ・クシュラ” “モ・クシュラ” “モ・クシュラ”と喝采を送ります。

マギーはファイトマネーで母親に家をプレゼントします、家族皆が住める広い家でした。ところが母親は生活保護が打ち切られるといってマギーの厚意を感謝しません。薬も健康保険が切られて飲めなくなるといいます。そして、家なんか買わないで金をくれればいいのにと言います。母親はマギーがボクシングをしていることを快く思いませんでした。

傷心のなか、帰りの車でマギーは幼いころの優しかった父親のことを思い出します。

マギーは、お気に入りのドライブイン “アイラのロードサイド食堂” の美味しいレモンパイを食べながら、フランキーに優しかった父親の面影を重ね、フランキーはマギーに関係の途絶えた娘を重ね、二人は親子のように語らいました。

輝かしい栄光を誇りにマギーは尊厳死を選び、フランキーは実行する。

“青い熊” ビリーとラスベガスでのタイトル戦が決定します。

マギーは “モ・クシュラ” のガウンを着てリングに上がります。一進一退の攻防が続きます。激しく打ち合いますが、次第に劣勢のビリーは幾度となく反則をします。

それでもマギーの優勢が続く中、ラウンド終了のゴングの後、背後からビリーの放った反則パンチで、左側頭部を椅子で強打し失神して病院へ運ばれます。

タイトル戦のビリーの反則で、マギーは全身麻痺の状態になります。

マギーは第1頸椎骨と第2頸椎骨が損傷し脊椎が働かず、一生、全身麻酔のままになります。

人工呼吸で四六時中、酸素を送り込まなければなりません。フランキーは、6時間かけてラスベガスの病院からマギーをリハビリの病院に移送します。

マギーの家族がディズニーランド帰りの格好で見舞いにやってきます。そして、母親と家族は弁護士を連れて、マギーの財産をすべて名義変更しようとします。

愛情のかけらもない母や家族に、マギーは深く傷ついて、追い返し絶縁します。

やがてマギーの左足は壊死して切断されます。フランキーは必至でマギーを励まします。

マギーは “モ・クシュラ” の意味を改めてフランキーに尋ねます。

マギーは「自分は悔いなく生きたので、その誇りを奪わないで」とフランキーに<尊厳死>を願います。フランキーは「自分には出来ない」と断ると、その夜、マギーは自ら舌を噛み切りました。

フランキーは、手を貸すことが犯罪であることを知りながらも「マギーを生かすことは、殺すことだ」と苦悶します。

エディは「何か隠しているか?」とフランクに訊ねます。

「マギーは1年半で世界チャンピオン戦にガッツで挑戦できた、素晴らしいことだ。人間は毎日どこかでだれか死ぬし、多くの人は人生を悔いながら最期を迎える。マギーには悔いはない、彼女が最後に思うことは “いい人生だった” ということだ」とマギーの気持ちをフランキーに告げます。

フランキーは決心します。病室に入りマギーに「いいかい、呼吸装置を外すよ。そして注射を1本打つよ」といいます。そしてマギーにそっとキスをして “モ・クシュラ” は、“愛する人よ、お前は私の血” という意味であることを伝えます。

そしてフランキーは呼吸装置を外し、マギーが苦しまずに死ぬことができるように、何人も殺せる量のアドレナリンを管に注入していきます。マギーの心電図は止まります。

その後、フランキーは心虚ろに病室を出ていきます。

エディは、やがて戻るであろうフランキーをジムで待ち続けますが、フランキーはついに戻ってはきませんでした。

エディはフランキーがいなくなったことを、娘のケイテイに向けて届くあてのない手紙に綴ります。こうして物語は閉じられます。

物語の中の神の存在と、普遍的な価値としての尊厳死について。

植物人間となってしまったマギーは、絶望的な状態となります。そして彼女は<死>を願います。

フランキーは、苦しみぬいたあげくにマギーの望む<尊厳死>を幇助します。

そして<神>が天上から、この人間の行為を見ています。

フランキーはホーヴァク神父に相談しますが、神父は「手を貸せば、生涯、悩み続けるだろうといいます。

神父は「何もせずに身を引きすべてを神にお任せするのだ」といいます。

フランキーは「マギーは神ではなく、俺に助けを求めている」と深く苦悶します。

そしてエディアは、ボクシングをする人間の尊厳として「マギーに悔いはないと言います。そして苦悩するフランキーに、ボクシングを愛する者としての考えをマギーに代わって伝えます。

フランキーが、アドレナリンの注射針を2本持ち、マギーに1本打って、もうひとつ残りの1本はどうしたのかは謎のままです。

マギーのお気に入りの “アイラのロードサイド食堂” では、レモンパイを食べながら「こんなに美味しいなら死んでもいい」というセルフでした。

フランキーはマギーを娘のように思うからこそ、そしてマギーはフランキーを父のように思うからこそ、<尊厳死>を理解してほしい、叶えてほしいと考えています。

それが二人だけに理解しあえる絆なのです。

普遍的な価値として<尊厳死>を語ることは、国や宗教や価値観も異なるので、非常にセンシティブだと思います。ただし物語を通じて理解できる部分は大きい。

当然ながら、その判断は生前に意識のある本人が行うことであるし、同意は肉親や限りなくその関係に近い代理人であるべきかと思います。

重いテーマの作品です。信頼しあえる人間同士、長い時間の共有しあえた絆の上だからこそ判断できる感情もあります。

そして医療の進化と限界、法の整備の研究、そして信仰心も十分考慮され、より良いものである必要があります。

その結果としての<尊厳死>の選択ならば、私は肯定したい。貴方はいかがでしょうか?