映画『卒業』/花嫁の略奪シーンにみる、ベンジャミンの自我の開放と行方。

解説>アメリカン・ニューシネマを代表する不朽の名作。べトナム戦争や大学紛争など反体制のムーヴメントの時代下、東部の有名大学を卒業した優秀な青年が孤独と喪失感のなかで、大人の社会に反抗し自我の開放を目指して、明日に旅立っていく物語。

1940年代のハリウッド映画の黄金時代の主流となる英雄ものや勧善懲悪、夢のような恋物語の「ハッピーエンド」から、社会的には公民権運動などを経て60年代後半に入りベトナム戦争が鮮烈化して、若者たちは戦場へと向かう。やがて人々はアメリカが今、ベトナムで行っていることは正義なのかと考える。そして1970年前後に、時代は大きく反体制に転回した。

ハリウッドも反戦気分の中、大学紛争やヒッピームーヴメント、実存主義などの世相を反映する。1967年の映画、『卒業』(マイク・ニコルズ監督)は、この時代に始まったアメリカン・ニューシネマを代表する作品である。『卒業』は体制に抗う若者が、惨めで恰好悪く神をも冒瀆する「アンチヒーロー」の無様さのなかに生命の輝きを見いだす。それは1950年代に青春を謳歌したアメリカの古き良き時代から、以降のベビーブーマーたちが彷徨うセンチメンタルジャーニーでもある。

東部の有名大学を卒業したベンジャミン・ブランドック(ダスティン・ホフマン)は西部のカリフォルニア州南部のパサデナに帰郷する。空港の出口に向かう自動歩道のシーンで、ベンの心境が「サウンド・オブ・サイレンス」にのせて流れてくる。

ベンにとって、そしてきっと時代にとっても、<暗闇/静寂こそが古い友人(Hello darkness, my old friend)>である。

ベンは青年特有の社会への適応を回避するように<人々がしゃべるけど会話をしていない(People talking without speaking)>、<人々が聞いてはいるけれど聴こえていない(People hearing without listening)>。そういう嘘の人間関係のなか孤独と喪失感に包まれた時間を見つめている。

ベトナム戦争にアメリカはたくさんの若者を送り込んでいた。テレビはその戦争の現実を容赦なく映しだす。遠いアジアの異国の地で大義なき戦いが展開されている。良識に満ちたアメリカの人々の誇りは失われ、見せかけの商業的な豊かさのみが暴露される。この戦争は、ほんとうにアメリカの正義なのだろうかと国民は疑問を呈する。それまでのWASP的な価値観が崩壊し始める。

陸上部のスターで新聞部長だった自慢の息子ベンジャミンの帰郷をブランドック夫婦は迎え祝福する。母親(エリザベス・ウィルソン)はから騒ぎしてはしゃぎ、父親(ウィリアム・ダニエルズ)はそれを見守る。パーティに集った友人親戚は、21歳を迎えた優等生のベンの将来を嘱望する。期待に押しつぶされそうになりながら漂流するベンの心情は、未来への漠然とした不安と重なる。

ベンの部屋に訪れるミセス・ロビンソン(アン・バンクロフト)。彼女の存在は、ブランドック夫妻とは対照的である。模範的な良妻賢母を演じるミセス・ブランドックにとって、ベンは誇りである。しかしミセス・ロビンソンは、夫婦生活は冷めており、自分の生き方にも退廃的である。

ベンは卒業記念にプレゼントされた赤いアルファロメオ・スパイダ―で、ロビンソン夫人に言われるままに彼女を乗せて家まで送る。そこでロビンソン夫人は、自らをアルコール依存症だと云って夫の不在をいいことにベンを誘惑する。しかし何とか誘惑を逃れる。そこに父親の友人で事業パートナーのロビンソン氏(マーレイ・ハミルトン)が帰ってきて、ベンの帰郷を称えると同時に、もっと肩の力を抜け。と処世訓を教える。

こうして純情なベンは、一度は誘いを逃れたが、生きる意味を探し得ない虚無感に抗しきれず、ロビンソン夫人とやがて体を重ね、何度も逢瀬をくりかえし深い闇へと堕落していく。

大学を卒業して大学院に進むこともなく、就職をすることもなく、モラトリアムな状態にいる息子を、心配した両親は気分転換に北部のバークレーの大学から帰郷するエレーン・ロビンソン(キャサリン・ロス)をデートに誘うことを薦める。ロビンソン夫人の手前、エレーンに冷たくあたるベンだったが、その純粋でひたむきな性格に好意を持ち、ふたりは互いに惹かれ付き合い始める。

二人の仲に気づいたロビンソン夫人は、娘と別れないなら自分との関係を暴露すると脅し口論になる。ベンはエレーンに不倫の相手がいることを告白しようとするが、結局は二人の関係をエレーンに気づかれてしまう。

自分の母親と関係を持ったことを知ったエレーンは絶望し、失意のなかでキャンパスに戻る。

この不可解なプロットは、物語を転調させるが、その意味を如何に読み取るのか。アルコール中毒で、自身の芸術の夢に破れた退廃的なロビンソン夫人の行為は、自らが誘っておきながらベンに誘惑されたと嘘をつき、娘エレーンとベンの付き合いは、汚らわしいものとして認めない。人格が破綻している。ベンと両親の関係も窮地に追いやる、友人関係も失くしてしまう。そしてロビンソン夫婦は離婚する。

ロビンソン夫人は、こうしてベンを奈落へと陥れる。もちろんベンにも弁解の余地はない。

然し猛然とここで、ベンは反転してエネルギッシュになる、挫けない。ベンはエレーンという愛する目標を持つことができた。彼女の大学を訪れ、近くにアパートを借りる。エレーンを探し、誤解を解こうと懸命に努力して、何とか翻意を迫る。

当然ながら抵抗にあい、ロビンソン夫妻はエレーンにふさわしい金髪の長身の医学部生カールとの結婚の話を急ぐ。ベンもそのことを知る。そして有名なクライマックスの教会までの展開となる。

軽快な「ミセス・ロビンソン」の歌が流れるが、やがてギターのカッティングに変わる。豊かさのシンボルである赤いアルファロメオはガス欠で動かなくなる。ベンは大学時代の自慢の足だけを頼りに、サンタバーバラの教会へ走る。走る、走る、走り続ける以外に、ベンにとっての未来はない。

エレーンがまさに神への誓いをするその瞬間。制止すべく窓を叩く。ベンは「エレーン」と叫ぶ。それはこの世界で、唯一つの「誠実」を信じて、叫び続けるベンの姿である。

ロビンソン夫妻や新郎カールが、ベンに向かって罵声を投げかけるが、その音声はエレーンの意識の中からは消されている。エレーンはその顔々を横目に見ながら、「ベーン」と張り裂けるような声で応える。彼女にとってベンの叫びは「真実」として聞こえたのだ。

ベンをののしるミセス・ロビンソン。しかしエレーンの承諾を得たベンは、すでに神を恐れない。十字架を振り回す。ここは静寂の逆転である。

物語の冒頭、故郷へ帰るときの「サウンド・オブ・サイレンス」の静寂は、<人々はただしゃべり、ほんとうは互いの会話をしていない>、<人々が聞くふりだけで、ほんとうは耳を傾けて聴いてはいない)>。そういう見せかけだけの嘘の人間関係のなかで、孤独と喪失感のなかに自分はあった。

しかし、この罵声が消える一瞬は、<自分の選択は誰と話をすることも聞くことも答えることもない>という強固な自己である。社会は欺瞞に満ちている。だから常識は非常識のなかにあり、二人の非常識こそが、これからの常識になる。

世間も家族も神すらも敵対したとしても、愛する人のために闘おうとする自己の姿である。そしてベンはエレーンを教会の結婚式から略奪する。十字架を出入口の扉にかざして神の儀式すらも冒瀆する。

二人は手を取り合って教会を飛び出す。花嫁衣裳のエレーンをよれよれのパーカーとチノパン姿のベンが導き、バスに乗り込み後部座席に陣取り、乗客の視線を受けるシーンで物語は閉じられる。

老人だらけの乗客たちは、従順に導かれた古き良き時代を生きた人々だろう。非常識な二人を唖然とした目で眺めている。ここでも「サウンド・オブ・サイレンス」が流れてくる。この静寂は、きっと冒頭の心情とは違う。それは鬱積から解放された、カタルシスの静寂だろう。

ベンジャミンとエレーンは、確かに不安な道のりを歩み始めた。もう二人には、帰る家も両親もない。故郷を捨てることになるが、そこには二人が選んだ自我の開放という誇らしい道が続く。

前途は多難だが、二人で決め二人で生きていくという実存がある。その姿は、自分を束縛するものからの卒業である。