戦後最悪の事件を題材に実話に基づき映画化。非情な殺人鬼にして詐欺師、そして常に愛人を伴う犯人、榎津巌。悪魔のような残忍な犯罪に駆り立てた背景や心理を考える。78日間に5人の殺人を犯した心の闇の在り処はどこだったのか。
解説
人間を悪魔のような犯罪に駆り立てる、記憶や感情とは何なのか?
映画のタイトルは「復讐するは我にあり」です。印象的な言葉であると同時に、実話に基づく脚本と知り、衝撃的であり、犯人の素顔や半生に興味を抱いてしまいます。
新約聖書「ローマ人への手紙」第12章第19節に出てくる言葉です。
「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒に任せまつれ。録して
『主いい給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり」
つまり「復讐は人間がするのではなく、神が行うもの。神の怒りに委ねよ」という意味です。この「我」とは「神」のことです。
残忍な連続殺人犯であり詐欺師でもあるこの男は、78日間に5人を殺害した稀代の悪人で、捕まり死刑を前に「惜しくない 俺の一生こげなもん…」と嘯くのです。
神への反逆、神を畏れぬ榎津巌 は、カトリック信徒です。どのようにしてニヒリズムとアナキズムの化合された醜い怪物のような犯罪者が生まれたのか。あらすじを追いながら、その原因や動機と、主題を解説してみます。
その背景に、巌の幼少時代の記憶が、影を落としています。これが実際に起こった事件を、「復讐」を主題として、怨恨も何もない不可解な殺人を繰り返した男の闇として脚本化された醍醐味です。
物語の端緒は、長崎・五島の漁村で起こります。巌の父親で、キリシタンで網元の鎮雄 を長とする漁民たちの集落へ官憲が訪れます。当時は戦時下で軍用として船を官へ献納するように命じます。
対立軸としてキリスト教が伏線にあります。あくまでフィクションですが、絶対的な権力として大日本帝国の神道があります。五島は、遠い昔のキリシタンの迫害の歴史を彷彿とさせます。
なぜ、カソリック信者ばかり苦しめられるのかと鎮雄が役人に問います。ここでは漁師たちの長として抵抗しますが、痛めつけられ膝を折り、あえなく屈服させられます。異教や異文化を排除する当時の戦時下の国策もあったのでしょう。
幼い巌の心に、神などは存在しないこと。そして権力への理由なき反抗の心が芽生えたとしても不思議ではありません。
好き勝手に生きて何が悪いという、人間に潜むニヒリズムがやがて突き出てきます。巌は不良駐留軍と群れ、同時に、連中をも手玉に取ります。やがて捕らえられますが、改心の気配など全くありません。
大きく精神を傷つけられた幼少の出来事に、時代や境遇や性格や親子関係などいろいろな変数が加わり、後天的に異形として想像を絶する悪魔のような人間ができあがるのかもしれません。
事実、まさかという信じられない事件が、人間史には存在します。普通は起こらないが、絶対に起こらない理由もまた無いのです。
やがて指名手配になった巌は、日本中を逃避行します。いくつもの人格になりすまし、なんの罪悪感も持たずに、罪のない人々へ次々に殺人を繰り返します。
はじめは福岡で、金の強奪で2人の男を同時に殺害。事件の6日後には、瀬戸内海の連絡船から自殺を偽装した遺書がみつかる。静岡浜松の旅館では大学教授を装い、旅館の女将と親密な関係になり、その後、女将とその母を絞殺して貴金属など持ち物を金に換える。さらに、東京豊島区の一人暮らしの老弁護士を殺害。
父親への復讐心が、罪なき人々に及ぶ悪行に心の闇を見る。
残忍な殺人の手口、偽装自殺の巧妙さ、大学教授や弁護士など善人へのなりすまし。この多面性を全て、緒形拳が完璧に演じています。名優の凄まじい演技です。
一方、巌の嫁 加津子 は、仏教から洗礼を受けてキリスト教徒となり巌と結婚しますが、暴力的で異常な巌が、刑務所に拘留中に四国へ逃げだしてしまいます。
しかし、父 鎮雄の懇願で別府に戻り復縁する。加津子は敬虔なクリスチャンである鎮雄を尊敬していると言います。
しかし実相は、クリスチャンにもかかわらず鎮雄の家族全体も異形です。
鎮雄は、女房かよ がいながら加津子との関係も怪しい。かよもそれに気づいている。巌の収監中に、加津子は不義を働く。こんな行為は、神のへの冒涜であるはずだが、加津子が不憫との思いから鎮雄がはからった相手であり、ことの真偽を問いつめる巌に、鎮雄は巌が前科者の犯罪者であることを非難し、加津子を擁護する。
そのうえ鎮雄は神に誓った以上、生ある限り、加津子と巌と離縁できないと言う。狂気をむき出しにしながら巌は、鎮雄を偽善だと罵る。
仮出所後、巌は、静岡浜松に移動する。そこでも大学教授を名乗り巧妙な手口で旅館の女将ハル を手玉にとる。ハルは巌が殺人犯であることを分かりながら、尚、共に逃げようとする。
巌に愛人が多いのも、詐話師の口のうまさに、まんまとひっかかってしまう理由からのようだ。
ハルの老いた母親のひさ乃 には殺人の前科があり、ハルは、ひさ乃と生活するため、世間の蔑みにあいながら本意でない男の妾になることで生計を立てている。
巌の巧妙な詐欺の手口に取り込まれていくハル。しかし、ひさ乃は違った。ハルを失えば、暮らしが立ち行かず、ひさ乃は巌を追っ払おうとする。
ハルは、巌が指名手配中の殺人犯でも、巌と逃げたいと思う。巌との逃避行は、ハルにとって自身の今の暮らしからの脱出でもあった。
巌が口封じのために、いつ、ひさ乃を殺害するだろうかと息を飲むシーンの中、自身も殺人を犯した過去のある、ひさ乃が巌に問いただす。凄味のある不気味な場面だ。
ひさ乃は「わしは、ほんとうに殺したいばばあをやったので胸がすっとしただ」と言い、巌に向かって「あんたほんとに殺したい奴を殺してないんかね、意気地なしだねあんた」と言い放つ。
そして巌は、口封じのためハルとひさ乃を殺害して、金品を奪い逃げ去っていく。
物語の終わりに、刑務所に面会に来た鎮雄に対して、巌は「ほんとうはあんたを殺したかった」と話す。鎮雄は「いかにお前でも親殺しはできない」と返す。
巌の中に父殺しはできないということを何故か、鎮雄は見抜いている。鎮雄は「怨みも無い人しか殺せない種類だ」と言い、巌の顔に唾を吐きかける。
5年後、巌は自身の罪による死刑を堂々と受け入れ、りっぱに執行され、骨となった。その骨は、家族と共に眠ることを許されない骨であり、巌もそれを望まなかった。
山頂に向かうロープウェイのなか、加津子は鎮雄に「お父さんは狡か人です。そこが好きです」と言って、これからも鎮雄と一緒に生きていくと言う。
呪われた息子、巌の骨を悪魔祓いのように鎮雄と加津子が、山の頂きから空に向かって、思いっきり散骨するが、なぜか骨は空中で止まってしまう。
鎮雄と加津子の今後を、抗うように憎むような遺骨のストップモーションは啓示的でさえある。
宗教の教えを信じるが、それを全うできない人間の性は、逆にこの映画では、宗教の無力を憂い、さらに残酷なものに変態していく。これほど人間は異常になれるのかと思う。
実話を映画化した『復讐するは我にあり』、人間の葛藤を宗教が救えない姿を描きます。