『永遠の0』解説|散華の一瞬と、永遠の魂。

舌鋒鋭い保守論客でもある作家、百田尚樹のデビュー作となったベストセラー『永遠の0』の映画化。フィクショナルなエンタメ作品ではあるが、戦後世代はじめ多くの現代の若者たちに、父祖たちが闘った戦争の歴史に思いを馳せる機会を与え、大きな功績をあげた。

解説

日本人にとって、神風特攻隊は永遠の記録と記憶である。

小説は300万部を超えるベストセラー、映画は第38回の日本アカデミー賞(これほど明らかにアメリカの真似をした映画賞もないが・・・)を総なめにした。映画の主題歌はBlu-ray / DVDになり、テレビドラマ版あり、オーディオブック版あり、漫画版あり。そこに出版社や映画配給会社はもとより、大手広告会社、テレビ局、新聞社など、まさにマルチプルなビジネスモデルとして大成功を収める。

物語は、主人公の26歳の弁護士志望の佐伯健太郎が、4年連続、司法試験に落ちて将来への情熱を失っているところへ、祖母の松乃まつのが亡くなり、姉でフリーライターの慶子と共に葬儀に参列する。そこで嗚咽する祖父の大石賢一郎を見守るが、母親の清子から “血縁上の実の祖父” が別にいることを初めて明かされる。

賢一郎によると実の祖父は26歳で戦死した宮部久蔵という人物で、戦後に賢一郎と松乃は再婚したとのことだった。こうして姉の慶子ともに、健太郎が本当の祖父を探すという、観衆と共に時間軸を超えて、今を生きている人々が、戦争当時を知る人々を取材して、父祖の実像を訪ね行く物語が始まる。

先の大戦でゼロ戦(=零式艦上戦闘機)に搭乗して殉国に散った若者たちのことは、日本や外国が秘蔵している映像に残っている。戦争の記録も焚書されたり改稿を余儀なくされたものが多いが、近年新たな一次資料が発見されたりもしている。何より特攻隊を知る世代の方々も数少なくなられた。

そして、2013年の日本であくまでフィクションではあるが、このような大掛かりな表現媒体が連動して、虚実あるとはいえ、記録と記憶として表現されたことになる。

政界や法曹界や識者やコメンテーターなどさまざまに賛否両論をなす。当然、左と右の立場に分かれる。「戦争賛美=特攻隊を美化している」という批判が出れば、いや戦争や当時の軍の上層部を批判しながら、「生きるということのかけがえのなさ」をテーマとしていると反論する。

臆病者が家族の未来を信じて散る、個のなかにある日本人の殉国の精神。

戦争において国家と個人の関係は、別段、日本においてのみ限られたことではないと思う。

取材に歩く健太郎と慶子だが、行く先々で宮部久蔵は「命を惜しんだ臆病者だ」と聞かされ気分が消沈する。ところが癌で余命少ない井崎に会うと、健太郎の本当の祖父、宮部は天才的な操縦技術を持つ優秀なパイロットであり、戦術にも長けた尊敬すべき人物だったと正反対の話を聞く。

宮部を最初は憎み挑んだという、現在は任侠に生きる景浦も、真の勇気を持った男であると称えながら健太郎を抱きしめる。現在は会社の社長となっている武田もまた宮部の孫、健太郎を見て、宮部の面影を偲びながら思いがけない出会いを喜ぶ。

相反する宮部久蔵の過去の評価に、健太郎と慶子は「私は死にたくない、生きて妻子のもとに帰りたい」とあれほど死ぬことを否定しつづけた祖父が何故、特攻隊に志願し、そして散っていったのかが分からない。二人は久蔵の謎をさらに深く訪ねて行く。

艦隊から空母へと戦いの主戦場が変わり、真珠湾奇襲で空母を撃沈し損ねたことが、後のミッドウェイ海戦の敗北に繋がり、日本海軍は空母4隻と艦載機290機を喪失する。

この無残な敗北で戦況は一気に転換し、続くガダルカナル島の奪還も失敗し撤退、サイパンはじめマリアナ沖の守備隊の玉砕、そして絶対国防圏を脅かされ本土への空襲が可能となった時、ついに特攻が本格化する。

もともとは東アジアの戦いと位置付けられた「大東亜戦争」は、戦後「太平洋戦争」とされる。近年の資料では当時の日本の内閣と軍部、そしてアメリカやソビエトに在る共産主義勢力の策謀もあり戦いの場が太平洋の島々になったとされる説もある。

ゼロ戦の超軽量の機体の構造は、軽く薄く、上昇力や急転回など格闘性能と航続時間を誇る世界でも最高の戦闘機だった。しかし往復の燃料を計算すれば上空での戦闘時間は限られる、勝算の薄い戦いを精神力で乗り越えさせる、無謀だ。

やがてアメリカ軍も日本のゼロ戦に勝るグラマンを投入してくる。敗色が濃くなり始める中で、ゼロ戦は、特攻という恐ろしい兵器と化したのである。

物語では、臆病者と言われた宮部久蔵は、こんな理不尽で無謀な戦争で死ぬことは犬死だと考えた。軍令部は戦略も戦術も違えている。だから何としても生きて家族のもとに帰りたいと考える。最初は、宮部を臆病者と思っていた井崎も景浦も次第にその真意を知る。

「特攻隊」は愛国の殉死か、犬死か。私達は記憶を風化させてはいけない。

ラバウルからの生還後、海軍航空隊予備学校の教官となった宮部久蔵は教え子を死なせたくないと考える。同時に戦況はサイパン、グアム、レイテと最悪となる。すでに学徒出陣となっておりパイロットは20歳以上の若者が担うことになる。殉国のために散華することは、日本海軍の悲願となる。志願の名のもとに武士としての死を強いられる。

自分の教え子が次々に命を落とす様を見て、宮部久蔵は自分の無力さに打ちのめされ憔悴する。そしてついに宮部は自ら特攻に志願する。

21世紀の現代にもテロや民族紛争など非対称の戦争は起こっている。物語の中、若者たちの合コンで、健太郎と友人が口論となり、中東の自爆テロと日本の先の戦争での特攻を比較しヒロイズムを否定する場面がある。そして友人達から「豊かで平和な日本に、戦争の話は相応しくない」と非難される。

ステレオタイプとしての若者たちの意識の挿入である。現代の日本の姿だと言いたいのかもしれない。確かに、今の自由を満喫することが正しい、と考える向きも多いと思う。

しかし日本はどのくらい国民の生命や財産を守るという主権国家のていを成しているだろうか。世界という弱肉強食な現実を、どのように考えているのだろうか。

グローバルな世界とイデオロギーを異にする隣接する国家の覇権的な拡張政策への危惧。人類はある意味では戦争の歴史を歩んできたのであり、日本だけが無関係ではありえない。

きっと映画『永遠の0』を鑑賞する日本人は、この作品をひとつのエンターティメントとして捉えるだろう。そして平和を尊び、二度と戦争の惨劇が起こらないように祈る。

宮部久蔵が、特攻を覚悟した時に、エンジントラブルに気づき旧型の賢一郎が搭乗する予定のゼロ戦と交換をする。そして賢一郎の生還を信じ、機内に叶うことならば「家族を頼む」との手紙を残し、若き教え子の賢一郎に松乃と清子の未来を託し、散華する。

子々孫々と受け継がれる日本人の物語に、父祖たちが生きた時間に思いを馳せることを願う。

肉体は無くなっても魂は永遠に生き続けるという日本人のセンチメント。『永遠の0』は、感動と涙を誘う作品である。映画はフィクションだが、戦争の、そして特攻の事実は日本の現実の歴史であることを噛みしめなければならない。

やはり私は坂口安吾のいう「若者の胸に殉国の情熱が存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い、愛す心を忘れてはならない」という考えに賛成である。

それは決して戦争を美化するものではなく、父祖たちの永遠の魂を忘れないことなのであろう。